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 平成20年キャンプ
  平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
 
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン〜飛鳥編Part1
         
キ ト ラ 古 墳
 今日は一日かけて、乗用車で飛鳥の地をゆっくりまわってみようと思う。
 前ページも書いたが、飛鳥は推古天皇即位から平城京遷都までの約100年間、政治の中心だったところだ。斑鳩と違って建物はあまり残っていないが、古寺、古墳、石造物などの史跡が点在している。
 それらを南から北へと一つ一つ訪れていくつもりなので、位置関係はこちらのマップを参考にしてください。
 本日朝一番は、キトラ古墳からだ。
 キトラ古墳は直径13.5メートル、高さ3メートルの2段構築の円墳である。昭和47年に壁画が発見され飛鳥ブームを巻き起こした高松塚古墳と、同じような形をしているという。
 平成13年の調査により空想上の霊鳥「朱雀」が描かれていることがわかり、こちらも一躍脚光を浴びた。
 天井に天文図も残っており、現存するものでは中国のものより古く、世界最古の天文図だといわれている。
 現在は石室部分がこのような仮設保護覆屋によって覆われており、壁画の剥ぎ取り作業が行われている。
 これまで、この古墳の名前がカタカナなのを奇妙に思っていたが、これは「北浦」という土地の名前が「キトラ」となまったものと言われている。
 他の説でおもしろいのもある。墓泥棒が穴を掘って玄室を覗いたとき、「亀」と「虎」の絵が見えたから「”き”と”とら”」で「キトラ」になったという説だ。
 ←↑これらは保護覆屋のフェンスに掲示されていたパネルの画像。左上は白虎、上は発掘当時の古墳外観だ。
 さて、古墳の建造時期についてだが、キトラの方が高松塚古墳より先に造られたものらしい。高松塚古墳ほど唐の文化的影響を色濃く残していないことから、遣唐使が日本に帰国する704年以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られたと見られている。
 被葬者は天武天皇の皇子・皇女か、朝廷の高官、あるいは百済王の一族であるとする説など様々ある。
 高官説で特に有力なのは、右大臣の阿倍御主人だ。
 「あべ、ごしゅじん」とメイドさんみたいに読んではいけない。「あべのみうし」と読むのが正しい。
 彼は「壬申の乱」で天武天皇に味方して活躍し、その後も位を極めた。なんと、あの「竹取物語」にも左大臣として出てくるという。
 死亡年齢は69歳。
 文化庁が発表したところによると、発見された人骨についていた歯の摩耗などから「被葬者は熟年から老年、性別は不明」だという。
 熟年は40代から50代、老年は60代以降だ。40歳と60歳ではあまりに差が開きすぎていて、候補者の中から絞り込むには不十分な鑑定結果である。
 だが、いちおう阿倍御主人は範囲内ということで、被葬者リストから除外することはできない。
 また、「副葬品などから、高松塚古墳の被葬者の方が身分が高い」そうなので、キトラ非皇族、あちらは天武天皇皇子、と考えることもできる。
 一方、百済の王族説も捨てがたい。
 天文図、正式には星宿図というらしいのだが、これは元々大陸起源のもので、中国や高麗の古墳に見られるという。四方の壁面にそれぞれ白虎、青龍、朱雀、玄武四神が描かれている構成も大陸起源だ。
 さらに、星宿図に描かれた星空は北緯39度である高句麗の首都ピョンヤンで見る星空と一致するというから、ますます渡来人説が有望なような気がしてくる。
 こちらが現在の古墳外観だ。仮設保護覆屋とは反対側の位置にあたる。
 知らなければ、ただの竹やぶである。小さな看板がなければ気づかずに通り過ぎてしまう。
 そもそも飛鳥の地には、至るところに古墳がある。田んぼや畑が広がる平らな土地にぽこっと盛りあがった緑があったら、まず古墳に間違いない! と言い切っても過言ではないほどだ。
平成20年5月17日追記:
 
 これまでは様々な情報から「高松塚古墳は天武天皇皇子、中でも高市皇子が有望。キトラ古墳は渡来系か右大臣・阿倍御主人あたりか」と、わたしなりに判断してきた。しかし、このたび新たな調査結果が発表され、キトラ古墳の被葬者も天武天皇の皇子である確証が強まった。
 
キトラ古墳の木棺は朱色、被葬者は格の高い人物か(H20/05/16 読売新聞)
 
 奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)で、被葬者を納めた木棺の内外側が、ともに朱色に塗られていた可能性が高いことが、奈良文化財研究所などの調査でわかった。
 飛鳥時代、朱塗りの棺(ひつぎ)は天武・持統両天皇の合葬陵以外に例がなく、被葬された人物の格の高さをうかがわせる。
 
 2004年に行った石室の発掘で大量に出土した木片や塗膜片を奈良文化財研究所が調査。従来は内側だけが朱色だったとみられていたが、棺の外側に取り付けられたとみられる飾り金具の周辺の破片や、棺の縁付近の塗膜片などにも朱色が残っていたため、木棺は内と外の両側が朱色だったと判断した。
 
 表面が黒い木片や塗膜片もあり、同研究所は「木棺とは別に、棺を載せる黒漆塗りの台があった可能性が高い」とみている。
 
 朱は古代から被葬者を邪悪なものから守る色として、木棺や石棺に塗られた。天武・持統天皇の合葬陵にあった天武天皇のものとみられる棺は、布と漆を交互に重ねた「夾(きょう)紵(ちょ)棺」といわれる最高級品で、表面が朱色だったとされる。
 
 同じく極彩色壁画が描かれた高松塚古墳の棺の表面は、黒色に金箔(きんぱく)が張られていたとみられている。
 
 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は、キトラ古墳の被葬者は、壬申の乱で活躍し、天武天皇を助けた高市皇子(たけちおうじ654?〜696)の可能性が高いとする。
 『天皇と区別するため、夾紵棺よりもランクが低い木棺を使ったが、朱を塗ることで皇太子に匹敵する扱いをしたのだろう』と話す」
 (抜粋終わり)
 
 皇太子か皇太子に匹敵する身分となると、これまで挙げられてきた臣下説は消える。となると、天武天皇か天智天皇の皇太子、皇太子に匹敵する地位の皇子が俄然有力となってくる。
 猪熊教授は04年にも「高市皇子こそキトラ古墳の被葬者にふさわしい」と話しているので、どうしても高市皇子のお墓ということにしたいらしい。
 わたしは大陸起源の星宿図が描かれていることを考えると、百済王家の王族説もまだまだ捨てがたいのだが。
 また「副葬品から見て高松塚古墳の方が身分が高い」という説も忘れてはならない。
 高松塚古墳の被葬者も高市皇子だとする説が有力だし、いったいどちらが本当なのか?
 続いて、産経新聞の記事もご紹介する。

被葬者の木棺は朱色 天武天皇系の証しか (H20/05/15 産経新聞)
 
 (前文省略)
 飛鳥時代の天武天皇を納めた棺(ひつぎ)も朱色だったとみられており、キトラ古墳の被葬者が、天武天皇の皇子の高市皇子だったとする一説の補強材料として注目されそうだ。
 (中文省略)
 
 調査した高橋克壽・花園大准教授(考古学)は「木棺の漆は身分によって色を使い分けていた可能性もあり、他の古墳の調査も必要」と話した。
 
 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)の話 「天武天皇と同じ朱色の棺だったことから、キトラの被葬者は、皇太子と同等の高位にいた高市皇子の可能性が高まった。天武天皇には布と漆を重ね合わせた、より格が上の『夾紵棺』を用いており、木棺の皇子と厳格に区別したのだろう」
 (抜粋終わり)
 
 天武天皇と持統天皇(合葬)の棺は、最も格が高い夾紵棺だった。皇子には通常、木棺が用いられた。キトラの被葬者は木棺に納められたが、天武天皇と同じ朱色に塗られていた。
 そのことから、被葬者は天皇ではないが、一般の皇子よりも格が上であると考えられるというのだ。
 これまで高松塚古墳が高市皇子陵として有力だと思っていたので、これは意外な発表であった。であるとすると、高松塚古墳の被葬者は誰?
  
 ■参考サイト/奈良新聞
文 武 天 皇 陵
 次は北に1キロ、文武天皇陵である。
 第42代・文武天皇(在位697〜707年)は693年に立太子し、697年に祖母・持統帝に譲位され15歳で即位した。
 父は草壁皇子(天武帝・持統帝の子)、母は阿陪皇女(文武の死を受けて即位、元明天皇となる)。
 天智帝、天武帝いずれからみても孫にあたるエリートな皇子であったが、707年6月、24歳の若さで早世した。系図はこちら
 「続日本紀」には11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたと書かれている。
 個人的にはこの文武天皇こそ、その後の皇室と藤原氏との関係を決めるキーマンとなった帝であると思っている。
 なぜなら、帝の皇后は皇女と決まっていた当時、世継ぎも皇后所生の皇子から選ばれるのが普通であった。しかし、文武は正妃が決まる前に藤原不比等の娘・宮子を妊娠させ、皇后を迎えないまま早々に亡くなってしまった。
 こうして生まれた男子が後の聖武天皇であり、そこへ再び不比等の娘が嫁いで皇后になる。
 藤原氏が陰謀の限りを尽くして敵対勢力を蹴落とし、天皇の進退をも左右するほどの力を持つようになるのも、ひとえに一族の娘が天皇の跡継ぎを生むようになったからである。
 これはまさにターニングポイントとなる出来事だったのだ。さらに詳しく読む
 わたしは写真を撮りながら文武陵の正面を通り過ぎ、来た方向とは逆に向かって歩いていった。
 すると、ミカンの無人直売所という、なんとも場違いなものが陵の敷地内に建っているのに気づいた。
 道路に面していないので誰も買いそうにないのだが、それはそれは堂々と陵の方を向いて建っている。
 「なんで天皇陵にみかん売り場が・・・」
 どう考えても、陵を見学に来た観光客目当ての直売所としか思えない。
 しかし、1日にどれくらい売れるんだろう。すぐそこのビニールハウスで採れたみかんのアウトレットものだろうか。
 などと考える間もなく、わたしは思わずみかんの品定めをしていた。
 この時期、みかんを見るとついつい買ってしまう習性のわたし。パソコンで仕事するにもテレビを観るにも、とにかくみかんがなくちゃ生きていけないというほど、みかんが好きだ。
 すごい小粒と、すごい大玉の2種類が置かれてあって、わたしは迷うことなく大玉を一袋手に取った。無人なので、錆びついた鉄の箱に100円を入れる。
 あとで車の中で食べたが、味はあんまり・・・。(^^;
 陵の廻りをぐるりとまわる。
 文武天皇について日本語と英語で解説したプレートが設置されていた。これは奈良にはなかったものである。
高 松 塚 古 墳
 再び車に乗り、200メートルほど北へ移動。
 小さな手書きの看板に導かれ、先ほど『キトラ』の項でも書いた高松塚古墳を探す。
 飛鳥は狭い範囲に遺跡が分散しているため、レンタサイクルによる観光が盛んだ。おそらくこれも自転車を誘導するための看板なのだろう。
 看板が指し示すのは、ハマーではとうてい入って行けそうにない細い田んぼ道だった。正規の表玄関に通じているとは思えないので、わたしはここで車を降り、一人で古墳を目指した。
 左手にこんもりとした緑の丘があり、正面にも盛りあがった古墳みたいな小山が見える(青いビニールシートの向こう)。
 さて、高松塚古墳はどっちだ?
 よくわからないまま、わたしは小径を歩いていった。
 最初は正面の小山が古墳だと思っていた。だって、どこからどうみても古墳としか思えない、均整のとれた小山なんだもの。
 しかし、近づいていっても標識がない。すごく有名な古墳のはずなのにおかしい。
 なんだか妙だと感じて、左側の丘に方向修正。すると、丘の麓に高松塚古墳の方向を示す標識が現れた。
 どうやら古墳だと思った小山は、ただのボタ山だったらしい。
 いや、違う違う。あの綺麗に盛りあがった小山は、絶対に古墳に違いない。掘ってみれば、もしかしたら古墳かも? ・・・なんて、人の田んぼだからって勝手なことを考えてみる。
 さて、緑の丘が高松塚古墳だと判明したものの、やはり正面玄関ではなかったようで、どう見てもただの藪。どこから入ったらよいのか皆目わからない状況であった。
 しょうがないので植えこみをよじ登っていくと、遊歩道らしき舗装道に出た。犬を散歩させていたおじさんが、ぎょっとしたような視線を向けてくる。 
 広い丘陵地全体が飛鳥歴史公園として整備されており、とても綺麗だ。遊歩道を歩いていくと、頭上に灰色のシートで覆われた建物が見えてきた。どうやら、あれが古墳の石室解体作業現場らしい。
 ここも元々はこんもりした竹やぶだったものが工事現場みたいな状態になっていた。
 いくら玄室を保存するためとはいえ、もうちょっと自然な風景を保ったまま作業できなかったのだろうか。これではあんまり情緒がなさすぎるってもんだ。
 かといって、天皇陵のようにほとんど調査せず封印したままというのも、考古学上どうかと思う。現天皇家のご先祖であることを考えれば、ずかずかと立ち入ってハゲ山にするわけにはいかないという事情もわからないでもないが。
 一方、天皇陵として後世に記録されなかったキトラ古墳や藤ノ木古墳、そしてこの高松塚古墳は、宮内庁の管轄でなかったばかりに伐採され、マンションの工事現場のようなありさま。
 飛鳥時代当時の面影に思いを馳せることなど、なかなか難しい光景である。 
 高松塚古墳の被葬者については、諸説ある。その多くがキトラ同様、天武天皇の忍壁皇子や高市皇子の名前を挙げている。
 調査の結果、歯や顎の骨の様子から被葬者は40代の熟年からから60代の初老の男性と推測されたため、40代で亡くなった上の二人がそれに該当する。
 高松塚古墳は村の人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、古い切石にあたって発見されたという。
 うーむ、さもありなん。
 だって、同じ丘の中に、もっと正確に言うと飛鳥歴史公園内に個人の畑があって、畑仕事中の農家のおじさんが作業用バイクで公園内を移動している光景が普通に見られるんだもの。
 古墳が発見されなければ、このあたりはすべておじさんの畑になっていたかもしれない。
 文化庁のホームページには、「7世紀末から8世紀初めに築造された古墳であり、石室内部(内法:奥行2.6メートル、幅1.0メートル、高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図、日月像及び四神図、人物群像(女子群像、男子群像)が描かれた壁画古墳」と書かれている。 
 1972年には「飛鳥美人」と名づけられた色鮮やかな壁画が見つかり、新聞の一面を飾る大ニュースとなった。古墳の壁画に人物の絵があったのは、日本において初めてのことだったのだ。
 当時わたしは子どもだったが、「飛鳥美人」を新聞で見たときの記憶は今でも鮮明に残っている。
 しかし、1,300年近く地中にあった古墳が開口した結果、人の出入などによって壁画にカビが生えることとなってしまった。
 壁画の劣化を避けるため、キトラ同様壁画の切り取り作業が行われることとなったが、地元の人々の中にはこれに反対する意見もあるようだ。
 例え古墳が元の姿を留めないほどに変貌してしまっても、考古学的解明を優先させ、貴重なものは博物館で保存していくことを選ぶのか。
 それとも墓の被葬者を敬い、それ以上暴くのを控えるべきか。
 難しい問題ではある。
 エジプトのツタンカーメン王のミイラが調査される様子をテレビで観るたび、ふと胸が痛む。ツタンカーメンも、まさかミイラになった自分がレントゲンやCTスキャンで撮られたりするなんて、想像していなかっただろう。
 キトラや高松塚の被葬者だって、自分の眠る玄室の壁が削り取られて運び出されるところをあの世から見ていたとしたら、きっと目を剥くに違いない。
 ところで、古墳内は立ち入り禁止で見学はできないが、壁画館というところでレプリカを見ることができる。
 しかし、本日は休業だった。
 ちゅどーん。
 年始だからある程度は予想していたものの、そりゃあないよって感じである。
平成20年5月17日追記:
 キトラ古墳の追記に引き続き、ここでも被葬者は誰かという問題について書いておきたい。
 上では、キトラ古墳の被葬者として高市皇子がかなり有力になったと書いた。となると、この高松塚の候補者の一人、高市はリストから削除されることになる。
 では、天武天皇の他の皇子たちはどうだろうか。
 鵜野讚良皇女(持統天皇)とのあいだの一粒種で皇太子であったとされる草壁は、奈良県高市郡高取町佐田にある束明神古墳に埋葬されたという説が今のところ有力なので、やはり候補から外れる。
 それより以前に亡くなっている皇子たちが被葬者である可能性は、副葬品の年代を考慮するとまったく否定されるという。
 こうして候補者を消去法で絞っていくと、残るは忍壁皇子ただ一人となる。
 忍壁の生年月日は不明だが、死去したのは705年。持統天皇崩御の3年後である。
 壬申の乱の際、父・天武天皇に従っていることから、享年は40代中頃から後半と推定される。
 だが、ここで疑問が持ち上がってくる。
 束明神古墳は、その内部に壁画の一つもないという。対角長は36メートルの八角形墳で、まずまずの大きさ。しかし、壁画ひとつ描かれず、漆喰すら塗られていないそうだ。
 「日本書紀」「古事記」の記述では、草壁皇子は天武のあとを継ぐはずの皇太子である。それが、規模は大きいが質素な、しかも天武・持統天皇陵から離れた場所に葬られた。
 対して、キトラや高松塚古墳は「聖なるライン」と呼ばれる縦線上にあり、壮麗な壁画が施されている。副葬品も身分の高さを窺わせるものだ。
 もっとも束明神古墳の方は盗掘に遭って副葬品が残っておらず、比較のしようがないのだが。
 いずれにしても、草壁よりも格の低いはずの皇子たちが天武・持統天皇陵近くの、壁画のある古墳に葬られているというのは、どうにも釣り合いが取れない。
 高市、忍壁両皇子はいずれも母親の身分があまり高くない。しかも、父親である天武はすでに他界している。とすれば、いったい誰が草壁を凌ぐような墓所を造営したのだろうか。
 一方、草壁は讚良皇女(持統天皇)のただ一人の愛児。讚良皇女は一人息子の死の翌年、ついに帝位に上る決意を固め、天皇となる。
 つまり、壮麗な墓所を造る資金は十分あったはずだ。となれば、夫の埋葬地であり、いずれ自分も入るつもりである墳墓の近くに造るのが、親の心情というものではないだろうか。
 そして、天井画には皇帝を意味する星宿図を描く。天皇になるはずであった草壁のために。
 こう考えていくと、草壁は本当に皇太子だったのか。そんな疑問が頭をもたげてくる。
 さらに、キトラ古墳の被葬者は高市皇子で、高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子で、本当に間違いないのだろうか。どう考えてもわからない。
 この不可解さの陰には、歴史の大いなる闇が隠されていそうな気がしてならない。
鬼 の 俎 ・ 雪 隠
 高松塚古墳のある飛鳥歴史公園からてくてく歩いてやってきた、「鬼の俎」と「鬼の雪隠」。それぞれ「まないた」と「せっちん」と読む。まな板は料理をする板で、せっちんはトイレのことである。
 伝承によると、このあたりは霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が住んでいた。霧を降らせ、旅人が道に迷ったところを捕らえてまな板の上で料理して食べたという。
 そして、食後に用を足した場所が、雪隠(トイレ)というわけである。 
 ←これが、その「雪隠」。日本語と英語の解説が添えられており、鬼は英語で「demon」(デーモン)だそうだ。
 さて、セットになっているはずの「鬼の俎」はいずこに? と、あたりを探すと、実は少し離れた山の斜面にあった。
 こちら↓が「鬼の俎」。長さ約4.5メートルの平べったい石は、確かに人間を調理するのに十分すぎるほどの大きさだ。
 実を言うと、これらは上に盛られていた土が流出しまい、バラバラにされた石棺の一部なのである。
 7世紀末の飛鳥時代に作られた墳丘墓と考えられ、キトラや高松塚古墳と時期が重なる。
 右下の絵のように、花崗岩を精巧に加工した底石、蓋石、扉石の3つの石でワンセットだった。「俎」が底石、「雪隠」がその上に被さる蓋石で、それぞれ扉石とはめ合わせるための加工が施されている。
 「雪隠」だけが山から転がり落ちて畑に置かれているので、誰かが築城に流用しようとして運び出したものの、あまりに重いので放棄されたという説が有力だ。
 「俎」の方には、石を切り出そうとして楔を打ちこんだ痕跡が伺える。
 ここから300メートルほどのところにある欽明天皇の陪塚であるという説があるが、6世紀後半の人物であった欽明天皇とは時代が合わない。
 むしろ200メートル離れた天武・持統天皇陵のほうが時代が一致するのでは、という意見もある。
 しかし、、副葬品も碑文も何も残っていない以上、ここに誰が葬られていたのかを突きとめるすべはないように思われる。
欽明天皇陵、吉備姫王墓、猿石
 鬼の俎・雪隠から約500メートルの位置にある欽明天皇陵。全長140メートルの前方後円墳である。
 タイトルには欲張って他に2つも書いてあるが、実は3つとも同じ場所にある。
 吉備姫王は皇極天皇(在位・642年〜645年)と孝徳天皇(在位・645年〜654年)の生母で、30代・敏達天皇の孫にあたる。
 皇極天皇は舒明天皇の皇后で、天智・天武両帝の生母だ。
 弟である孝徳に譲位したが、孝徳が継嗣を定めずに亡くなったので、重祚して斉明天皇(在位655年〜661年)となった。この皇極と孝徳間の皇位のキャッチボールについて、「日本書紀」の記述にはなんともスッキリしない想いが残る。
 すでに成人に達していた中大兄皇子が母親からの譲位を受け入れず、なぜ叔父の孝徳に譲ったか。しかも、孝徳は3度も断った末に、ようやく引き受けている。
 中大兄が斉明天皇(皇極)の死後6年7ヶ月の間、皇位に昇らず皇太子のまま政治を執ったのはなぜか。
 きっと「日本書紀」には記されない事情や陰謀などがあったが、都合が悪いことは記録に残さなかったに違いない。
 しかし、これについて書き始めると長くなるし、吉備姫王とは無関係なので、ここでは省く。一応、次のページで謎の一端を書いておくことにする。
 「日本書紀」によれば、吉備姫王は皇極天皇2年(643年) に亡くなり檀弓岡に埋葬されたとある。「延喜式」(平安時代中期成立)には欽明天皇陵と同じ陵域内に埋葬されたと書かれているため、宮内庁がこの平田梅山古墳の南側に隣接する丘陵上に比定した。
 しかし、欽明天皇(在位・539年〜571年。推古天皇の父)は吉備姫王の曾祖父にあたる。直系とはいえ、彼女がここに葬られた理由がよくわからない。
 もしかしたら、後から欽明天皇陵に合葬された堅塩媛と混同されてしまったのかもしれない。と考えると、「延喜式」の記録はあまりあてにならない気がしてくる。
 さらに、ここが吉備姫王の墓ではないと考える理由はもう一つある。
 吉備姫王は娘・皇極の在位中に亡くなっているのに、こんなお手軽な葬られ方は不自然だと思うのだ。天皇の母親が逝去すれば、例え小さくとも新たな陵墓を築かせ、丁重に埋葬するに違いない。それが天皇の威信でもある。
 古墳を作るどころではない戦乱が起こったとか、直後に皇極本人も他界したとかいう理由があれば別だ。しかし、例えそうだとしても、孫にあたる天智帝か天武帝が後から改葬して立派なお墓を作りなおしてもよさそうだ。
 が、それもしていないところを見ると、これは吉備姫王の墓ではないんじゃないか。
 あるいは、吉備姫王は天智や天武の祖母ではない。
 または、皇極は吉備姫王の娘ではない。といった理由が考えられる。
 現代とは違って、正史を書き換えてしまえば誰が本当の子どもじゃなかったとか、兄弟じゃなかったなどの事実を簡単に消し去ることができる。
 次の天皇になったのが血の繋がった子孫でなかったとしても、つまり完全に王朝が替わったとしても、「日本書紀」では何々天皇の子、と書いておけば血統が繋がっていることにできる。
 そうした操作が幾たびか行われている疑いが持たれている正史、それが「日本書紀」なのだ。
 あらゆる可能性を考えたら複雑になりすぎるので、ここでは通説通り吉備姫王は皇極、孝徳らの生母で、天智、天武の祖母だとしておく。
 さらに、この墓も吉備姫王のものだと仮定すると、ここは欽明天皇陵ではなく、彼女の夫の陵墓と考えるのがごく自然になってくる。
 実は、欽明天皇の陵墓はここではなく、北に840メートルのところにある見瀬丸山古墳ではないかという説が有力なのである。
 見瀬丸山古墳は奈良県最大の前方後円墳で、航空写真で初めてその全容が掴めたという大規模な陵墓だ。古墳時代末期に造られたものとしては最大規模で、即位32年に及ぶ欽明天皇にふさわしい。
 石棺が2つ置かれていることが確認されており、堅塩媛との合葬と見られている。
 いや、この平田梅山古墳が欽明天皇陵で合っていると言う学者もいて、論争にはなかなか決着がつかないのが現状である。
 さて、話を吉備姫王墓に戻す。上の写真にもちょっと写っているが、王墓内に忽然と置かれている猿石が、これなのである。
 横に並んで4体あり、言われてみると猿のようだが、違うようでもある。
 菩薩像や観音像といった端正なものが多い日本の偶像文化にあって、実に異端な彫り物といわざるをえない。なんとなく中南米の古代文明の石像を思わせる、原始的な不気味さと異文化的なものを感じるのだ。
 猿ではなく渡来人を現したものだとか、ユーモラスな表情だとか言われているが、わたしが薄暗いジャングルをさ迷い歩いていてこんなのに出会ったら、間違いなく「きゃーっ」と叫んで逃げだすだろう。
 この猿石たち、実は元禄2年(1702年)に近くの田んぼから掘りだされたもの。1体は高取城跡に運ばれ、残り4体はしばらく古墳の南側に置かれていたが、明治初年ごろに現在の場所に移されたという。
 そんな適当でいいのかと思っていたら、実は平安時代末期に成立した「今昔物語」にこの奇石らしきものが記載されているそうだ。
 猿石は元々この天皇陵の堤に置かれてあったが、いつの頃か転げ落ちるか運び出されるかして地中に埋もれてしまった。ひょっとしたら、誰かが自分の庭に飾ろうとしたのか・・・。
 それが数百年後に拾い出されて、だいたい元の場所に戻されたということなのかもしれない。
天 武 ・ 持 統 天 皇 陵
 天皇陵としては唯一と言ってもいいほど、「ここで間違いなし!」と確定されているのが、この野口王墓山古墳だ。
 天武天皇と、その皇后で次の天皇となった持統天皇こと鵜野讚良皇女の二人が合葬されている。
 なぜ確定されたかというと、鎌倉時代に盗掘事件があり、その時とられた調書「阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)」が明治13年(1880年)に発見されたからである。
 その内容から、ここが真の天武・持統合葬陵であることが判明したという、希有な陵墓だ。墓泥棒さんに感謝である。
 天武天皇は631年生まれで686年没。父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇とされ、名は大海人皇子。天智帝の弟ではないという説もあり、異父兄説、異母弟説、まったくの他人説、渡来人説など様々だ。
 壬申の乱で大友皇子を倒して帝位に就き、天智帝の律令制をさらに押しすすめた。それまでの「大君」という呼称を「天皇」に改めさせたと言われるが、推古帝が最初の「天皇」だったという説もあり、はっきりしない。
 ところでこの陵墓、周囲には堀がない。東西の幅は約58メートル、南北は45メートル、高さ9メートルの八角形・五段築成だ。
 小高い丘の上に作られており、長い階段を昇っていくというスケールの大きさは、さすがに飛鳥時代最大の大帝と女帝の陵墓だと感心させられる。
 さて、鵜野讚良皇女は645年生まれの703年没。天智帝の皇女で、母は蘇我遠智娘だ。
 同母姉の大田皇女とともに13歳で大海人皇子に嫁ぎ、草壁皇子をもうけた。
 「えっ、叔父さんに嫁いだの? それも姉妹そろって?」
 なんて、ギョッとしてはいけない。叔父(伯父)と姪の結婚など飛鳥時代ではザラにあったことだし、叔母(伯母)と甥との結婚もあった(草壁皇子と元明天皇のカップル)。
 もっとすごいのは異母兄妹同士の結婚だ。当時は母親が違う兄妹の結婚は堂々と認められていたのである。
 中大兄皇子(天智天皇)は大海人皇子の裏切りを恐れて、姉妹をごっそり弟にやったと言われている。
 結局、皇位継承をめぐって天智天皇と大海人皇子は対立した。しかし、大海人は皇太弟を辞して大友皇子に譲るふりをして、吉野に退いた。
 「日本書紀」では大海人を正当化するため美化しているが、実際のところは兵を挙げるため吉野に逃げたのである。
 鵜野讚良皇女もそれに従った。大田皇女はすでに他界していたが、山深い吉野に同行したのは多くの妃のうち鵜野讚良のみだったという。
 天智の死後おこった壬申の乱では大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原で即位。鵜野讚良は皇后となった。
 686年、天武帝崩御。一粒種の草壁皇子はすでに24歳。すでに立太子しており、父の後を継ぐにはまったく不足のない年齢のはずだが、なぜか即位していない。
 天武の死の翌月、大田皇女の遺児・大津皇子が謀反の罪で処刑されていることから、それを憚ってのこととされている。
 この事件には、鵜野讚良が関わっていると言われる。我が子に皇位を継がせるため、最大のライバルである大津皇子に罪を着せたというのだ。
 しかし、不自然な話である。大津皇子が脅威だというのなら、草壁をさっさと天皇にしてしまえばいいのだ。それから、ゆっくりと邪魔者を消していけばいい。
 それなのに、草壁は即位しないまま27歳で死亡した。この奇妙な3年間の空位について説明するとしたら、次のようになるだろう。
 ◎草壁は皇太子になっていなかったと考えるのが自然である。
 ◎皇太子は、天武の長男・高市皇子だった。母親の身分が低いため兄弟の中の序列は下だったが、実力があり人望も高かったので、天武の信頼が厚かった。
 ◎高市は天武薨去を受けて即位したが、陰謀により退位に追いこまれた。歴史書は改ざんされ、「高市天皇」はなかったことにされた。
 ◎690年、鵜野讚良は即位を果たし、持統天皇となる。格下げされた高市は太政大臣となり、人臣としての最高ポストに就く。
 
 というものだ。
 草壁が皇太子ではなかったという考えは、その墓所であるとされる束明神古墳からも推測される。(高松塚古墳の項【追記】を参照)
 高市皇子が太政大臣となった点が事実かどうかはわからないが、もしそうだとすれば、持統ならではの巧妙な作戦かもしれない。父・天智天皇が大海人皇子を野に放ったことで、挙兵の機会を与えてしまったことに学んだと言えるだろう。
 696年、高市皇子は急死する。持統天皇即位から10年近くも経っているし、42歳の壮年だから、暗殺ではなく病死としても不自然ではない。
 死後は高松塚古墳かキトラ古墳に葬られたとする説がある。
 
 高市皇子即位説を裏づけるものとして、長屋王邸跡地から発掘された「長屋親王」と書かれた木簡が挙げられる。
 高市皇子の子、長屋王が「親王」と呼ばれたのは、なぜか。
 親王というのは通常、天皇の子だけに許される称号である。皇子の子は「○○王」と呼ばれ、決して「親王」とは呼ばれない。
 元明天皇(長屋王の妻・吉備内親王の母)によって、その子どもたちともども親王待遇にされたことは前に述べたが、その理由が父親が天皇だったからと考えることもできる。
 
 以上については、あくまでもわたしの推論だ。こういった事例について歴史学者はあまり踏み込んだ解釈をしたがらないが、わたしは真実が知りたい。
 歴史家は皇族についてのタブーを排除し、歴史の闇をつまびらかにしていってほしいと思っている。
 
      

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