杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
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藤原不比等
 藤原不比等が宮廷の実力者というと、中臣鎌足の息子だから出世したのだと思う人が多いのではないだろうか。
 しかし、そうではない。
 「壬申の乱」で天智近江朝側が敗退したとき、不比等は子どもだったため処罰されることはなかった。
 一族は没落し、近江勢は宮廷から一掃された。後ろ盾を失った不比等は自力で這い上って行かなくてはならなかったのである。
 正攻法では、大勢のライバルを押しのけて立身することは難しい。彼には天智の忠臣・鎌足の子という重いハンデがあったからだ。
 そんな不比等が目をつけたのが、文武天皇の乳母をしていた橘三千代である。
 乳母というのは、ただ若君が赤ちゃんの時に乳を与えるだけの存在ではない。養君が成長しても直近の腹心として側に残り、夫と一緒になって若君を盛りたてるためのロビー活動を行う場合もある。
 三千代もおそらく、そういう野心的で精力的な乳母だったに違いない。そういう三千代に不比等は巧みに近づき、二人はやがて夫婦となった。
 697年、文武天皇が14歳で即位する際、その擁立にあたって不比等に功績があったと言われている。
 しかし、功績も何も、文武は天武天皇と持統天皇の直系の孫で、他にめぼしいライバルはいなかった。持統は最初から草壁皇子の忘れ形見である文武に譲位する気だったのではないだろうか。
 いずれにしても文武がまだ若いため、持統が太上天皇になって政治をみるという形で譲位は実現した。不比等はその後宮に娘の宮子を入れ、最初の布石を置いた。
 ちなみに宮子は三千代との間の子ではない。
 文武が18歳のとき、宮子が念願の皇子を生んだ。これが後に聖武天皇となる首皇子である。
 首皇子が成長すると、不比等は今度は三千代との間に生まれた安宿媛(のちの光明皇后)を後宮に入れた。安宿媛が生んだのが、のちに孝謙天皇となる阿倍内親王だ。
 不比等はこうして、天皇家に藤原氏の楔を深く打ちこむことに成功した。
 この「藤原氏の血筋」を排除するために親子二代にわたって闘ったのが、元明天皇とその娘、元正天皇なのである。
元明天皇の闘い
 帝の皇后には皇女がなるのが当時の慣例だったので、世継ぎも皇后所生の皇子から選ばれるのが普通であった。しかし、文武天皇は正妃が決まる前に藤原宮子を妊娠させ、皇后を迎えないまま早々に亡くなってしまった。
 この宮子が産んだ男子が後の聖武天皇であり、そこへ再び不比等の娘が嫁いで光明皇后となる。
 同じ男の娘を母と妻に持つというのは現代では奇妙なことだが、藤原氏の繁栄はここから始まった。天皇の進退をも左右するほどの力を持つようになったのは、ひとえに一族の娘が天皇の跡継ぎを生むようになったからである。
 これはまさにターニングポイントとなる出来事だった。
 一方で、藤原氏の血筋を皇統から排除するために闘いを挑んだ人々がいた。
 707年、文武が24歳という若さで崩御。このままいけば次の天皇には首皇子がなるはずであった。史上初・藤原氏の娘を母に持つ天皇が誕生するのである。
 ところが、「そうはさせじ」と即位したのが、文武の母・阿陪皇女であった。彼女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹だ。持統とは母方では従姉妹にあたり、草壁皇子の妃なので姑・嫁の間柄でもあった。
 母が違う兄弟姉妹は別々に育てられるために仲が良くないことが多いが、彼女たちは母親同士が姉妹ということもあって非常に親密であったと考えられる。
 阿陪は持統の志を継ぎ、藤原氏の血を排除しようと異例の即位を果たしたのだ。なぜそう断言できるかというと、二人の母親は蘇我氏の娘だからである。
 「大化の改新」で蘇我入鹿が中臣鎌足らによって誅殺され、蘇我氏は没落した。不比等は、彼女たちにとって憎っくき仇の息子だったのだ。
 藤原一門の”希望の星”首皇子を不比等は一日も早く皇位に就けたかったはずだが、文武が死んだ時点でたったの6歳。平安時代に入ると幼帝も珍しくなくなるが、この時代、幼帝はまだ認知されていなかった。そこをゴリ押しできるほど、不比等は権力者としての地位をまだ確立していない。
 そこで歴史の本やウィキペディアなどで「首皇子が成長するまでの”つなぎ”として阿陪皇女が即位し、元明天皇となった」などと書かれる、たいへん異例な「息子から母への皇位継承」が成立するのである。
 女帝は天皇の皇族出身の妃、つまり皇后が夫の死後これを継いで誕生するものであった。推古天皇、持統天皇がそれである。
 息子の後をお母さんが継ぐ、というのはかなり異例の事態だ。しかし、阿陪はれっきとした天智の皇女で「草壁皇太子」の正妃だったし、不比等としても彼女を立てるしか方法がなかったのだろう。この時点で、阿陪皇女は確かに”つなぎ”だったかもしれない。
 不比等は元明が皇位に就くと早々に、平城京への遷都を打ちだした。翌年には女帝から遷都の詔が出されているが、これは渋々呑まされたものではないだろうか。
 平城京遷都を果たした不比等は、あとは首皇子の成長を待つだけとなった。
 そして714年、首皇子が元服。さあ、いよいよ元明が皇子に譲位する時だ。と、不比等が固唾を呑んでいたに違いないその翌年。
 元明女帝は自分の娘・氷高皇女に皇位を譲った。この皇位継承も非常に珍しいパターンで、日本の歴史で唯一、母から娘への譲位だ。「息子から母へ」というのも稀有なら、「母から娘」も最初で最後なのである。
 これも一般的には、「首皇子が病弱だったため、今度は元正天皇が中継ぎとなった」と説明されることが多い。
 しかし、下の表を見ていただきたい。元明が譲位した715年、首皇子は14歳になっていた。「数え」ではなく、満年齢でほぼ14歳である。さらに文武が即位したときの年齢を見てみると、やはり14歳なのだ。もはや成人と見なされる年になっていたのに、病弱だからといって即位を先延ばしにする合理的な理由が見あたらないではないか。
 医学が発達しておらず、人は短命。これまで健康そうに見えていた人でもいつポックリ逝ってしまうかわからない時代のことだ。まして病弱なら一日も早く即位させなければ、皇位を掴むチャンスを永遠に逃すかもしれない。
 なのに、下の表を見てわかる通り、首皇子は23歳になるまで待たされ、不比等はそれを見ることなく死んだ。
 さらに確証的なのは、首皇子の父・文武天皇が24歳で亡くなっている点である。繰り返しになるが、人が短命であったその頃、ハタチ過ぎまで待っていたら寿命が尽きてしまうかもしれないのだ。
 それなのに元明は娘に譲位し、その後も14年の余命を保った。死に瀕しての譲位ではないから、まだ余力のあるうちに譲位して「首皇子には渡さないわよ」という明確な意思表示をしたと言ってもいいだろう。
  
持統天皇 草壁皇子 文武天皇 聖武天皇 元明天皇 元正天皇 藤原不比等
天武の皇后 持統の子 草壁の子 文武・宮子の子 草壁の妃 草壁・元明の娘 宮子・
安宿媛の父
689年 死去
27歳
6歳 28歳 9歳
690年 即位
45歳
697年 退位
52歳
即位
14歳
701年 18歳 誕生
703年 死去
58歳
2歳
707年 死去
24歳
6歳 即位
46歳
710年 平城京遷都
715年 14歳 退位
54歳
即位
35歳
718年 孝謙天皇誕生
720年 19歳 死去
61歳
721年 死去
60歳
724年 即位
23歳
退位
44歳
729年 長屋王の変
748年 死去
68歳
 
 さらに後を受けた元正も首皇子が23歳になるまで譲位しなかったのは、彼女がもはや「中継ぎ」などでなかったことを端的に示している。
 一方で、「首皇子は確かに不比等の孫だが、元明の孫でもある。可愛くないはずがない、だから大事をとって自分と娘が中継ぎとなり、首皇子が無事に成長したところで譲ったのだ」と主張する人も多いだろう。
 物事の表側だけを見ていると、確かにそういう考えになる。だが、元明を蘇我の血を引く者という視点から見ると、首皇子は決して「可愛い孫」なんかではない。まして首皇子の即位はとりもなおさず、藤原一族の台頭にもつながるのだ。
 彼女が最終的に譲りたかったのは氷高(元正)の妹、つまり下の娘である吉備内親王か、長屋王との間に生まれた息子たちだったのではないだろうか。
 長屋王の父・高市皇子は天武天皇の長男であったが、母親が皇族でなかったため皇太子になれなかった。しかし、持統天皇の政権下で太政大臣を務めた実力者でもある。
 だが、不比等が死んだ翌年、元明も他界した。元正がとうとう首皇子に譲位するのは、それから3年後のことだ。
 なぜ、彼女はこのタイミングで首皇子にバトンタッチしたのだろう。母親の意志を継いで、妹・吉備内親王やその息子たちに譲位したいとは考えていなかったのだろうか。
 しかも、元正は退位から24年間も生き長らえている。まだまだ頑張れたはずだ。
 退位の4年後、吉備内親王と長屋王、その子ども達が自害に追いこまれる「長屋王の変」が起こった。元正が退位しないでいれば、こんな悲劇は起こらなかったのではないだろうか。
 そう思うと、元正退位の裏にいったいどんなドラマがあったのか、非常に気になるところだ。
 
光明皇后
 光明皇后、本名・安宿媛は藤原不比等と、やはり朝廷の実力者であった橘三千代の間に生まれた娘である。
 16歳で同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の後宮に入った。

 数年後、不比等が他界。
 9年後にはいよいよ首皇子が即位するが、安宿媛の産んだ男児は幼くして他界してしまった。
 にもかかわらず、三千代は強引に我が娘を皇后に押し上げた。
 これまで皇后は皇族の女性しかなれない別格の地位であったが、三千代と不比等の息子たちはゴリ押しして初の藤原氏出身の皇后を誕生させたのである。
 もともと、聖武天皇の即位自体が異例のことだった。
 彼の母親は不比等の娘・宮子。これまで藤原氏出身の母を持つ皇子が即位することはありえなかった。さらに、純粋な血統を持つ候補がいたにもかかわらず不比等が強行した即位であった。
 その後、三千代が他界すると、皇后自身も病の床につくようになり、さらに天然痘の大流行で4人の兄弟が相次いで世を去った。
 皇后同様、やはり病がちになっていた聖武天皇もショックを受け、やがてノイローゼ気味となる。
 永井路子氏の著作「悪霊列伝」(新潮文庫)では、このノイローゼの原因を長屋王一族の粛正が原因と書かれている。
 安宿媛立后の少し前、藤原四兄弟が政敵である長屋王に呪詛の濡れ衣を着せて屋敷を急襲し、妻や子どもたちともども自害させたのだ。うわべはあくまでも自害だが、実質は殺戮だったのではないか。
 長屋王は天武天皇の孫で、妻の吉備皇女も同じく天武の孫にあたる。さらに吉備皇女は天智天皇の孫にもあたり、母親は元明女帝である。血筋から言うと、こちらの方が聖武側より断然上だ。
 藤原・聖武サイドにとって最大の脅威は、長屋王以上に吉備皇女とその子どもたちであった。「長屋王の変」と呼ばれるこの政変において、藤原四兄弟が本当に狙ったのは吉備皇女だったと、永井路子氏は著書の中で主張している。
 こうしてライバルを追い落とすことにより安宿媛は皇后として立ち、皇族にしか許されなかった地位を得たのだった。
奈良は呪いの都
 しかし、「長屋王の変」によって、聖武と安宿媛は怨霊に苛まれ続ける負の遺産を背負うこととなった。
 その後の人生は、政情の安定と魂鎮めにのみ全勢力が注がれるようになる。
 皇后の母・三千代の死、大地震、干ばつ・飢饉、そして天然痘の大流行による藤原四兄弟の相次ぐ死、九州での反乱と、不幸が次々と襲いかかり始めた。
 聖武夫妻は食事もとれず、眠ることもできないノイローゼ症状に陥った。密かに長屋王や吉備皇女の名誉回復を図ったり、寺社に塔を建てるなどの魂鎮めを行った。また一国に一寺ずつ国分寺を築いたり、東大寺や大仏を建立したり、唐から鑑真上人を招いたりと、仏教に深く傾倒していった。
 鑑真上人と唐招提寺についてはこちら
 
 740年から5年間、聖武は何かに追われるように遷都を次々と繰り返した時期があった。平城京を「呪われた都」と怖れ、逃げだしたのである。紫香楽、恭仁、難波と、毎年のように都を移す混乱の中、安積親王(母は県犬養広刀自)が急死した。これは藤原仲麻呂(天然痘で死亡した藤原武智麻呂の子)に暗殺されたという説が有力だ。
 その翌年の745年、聖武は平城京に戻ったが、病状は優れなかった。大仏の建立が始まったのは、その2年後である。
 永井氏は著作「歴史をさわがせた女たち」で書いている。
 「大仏は決して奈良時代の繁栄の象徴ではない。繁栄どころか、当時の奈良の都には不安が満ち満ちていた。
 その不幸を追い払うべく、皇后はすべてを大仏造りに賭けた。その意味で、これはただ民力を搾取して大宮殿を造るお道楽とも少しわけが違う」
 皇后にとって、遷都を繰り返す夫を奈良に呼び戻すという意図もあったかも知れない。
 一般的には、災害や疫病が次々と起こったため、夫妻は国の安寧を願って仏教に深く帰依するようになったということになっている。実際、743年に発せられた大仏建立の詔にも「天下安泰、国民の幸福を願って」と書かれている。
 だが、本当に国民のために大仏を建てたのだろうか。彼らに国民を愛する心がまったくなかったとは言わない。実際、皇后は貧しい者に施しをするための施設や医療施設を設置したりと、今で言うところの慈善活動を行っている。
 だが、それもこれも良い行いをすることによって仏の慈悲にすがりたいという気持ちがあったからではないだろうか。彼らにとって仏教は、怒れる怨霊の魂鎮めのための新しい手段、言うなれば最先端の学問というか科学だったのかもしれない。
 兄弟四人がバタバタと相次いで亡くなれば、身に覚えのある人間なら「祟りに違いない」と思いこむだろう。
 現代ほど栄養状態のよくない古代のこと、思い詰めれば簡単に体を壊す。病気になったのは祟りのせいだと、さらに気に病む。ますます病気が治らない。治ったと思っても束の間、すぐにぶり返す、という負のスパイラルに陥るのだ。
 なんとかして怨霊の祟りを鎮めようと、聖武天皇と光明皇后は仏教に救いを求めたのである。
 奈良の大仏は長屋王一族供養のために建てられ、鑑真の招致と厚遇は怨霊鎮めの手段である仏教をさらに強化しようとしたためではないかと考えられる。
 しかし、大仏開眼の4年後、聖武は亡くなった。その2ヶ月後、橘奈良麻呂の乱が起こっている。
 財政的に無理を重ねた大事業は国費を浪費させ、人臣をも疲弊させたのである。
年 表
西暦 できごと 天皇
710年 都を平城京に遷都 元明
720年 不比等、死去 元正
724年 聖武帝即位 聖武
728年 聖武の基皇太子死去 聖武
729年 長屋王の変
安宿媛、皇后に立后
聖武
733年 光明皇后の母、橘三千代死去 聖武
734年 大地震
737年 天然痘の大流行。藤原四兄弟、死去 聖武
740年 藤原広嗣の乱
恭仁京へ遷都
聖武
741年 国分寺建立の詔が発せられる 聖武
742年 紫香楽京へ遷都
授戒僧を招へいするため、日本の僧が唐に派遣される
聖武
744年 難波京へ遷都
聖武の第二皇子・安積親王、死去
聖武
745年 都を平城京に遷都 聖武
747年 東大寺大仏の鋳造が始まる 聖武
749年 東大寺建立
孝謙天皇(阿倍内親王)即位
聖武
孝謙
752年 大仏開眼 孝謙
754年 唐より招いた鑑真が到着する 孝謙
756年 聖武帝、崩御 孝謙
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位 淳仁
759年 鑑真が唐招提寺を創建する 淳仁
764年 孝謙が重祚し、称徳天皇となる 称徳
770年 称徳死去 次代:光仁
 
皇子、皇女、天皇の呼び方
例を挙げると、阿陪皇女は「あへのひめみこ」、氷高皇女は「ひたかのひめみこ」、首皇子は「おびとのみこ」と読む。
また天皇の名前は死後に贈られる「諡(おくりな)」で、当時もそう呼ばれていたものではないが、一部例外もあった。
天皇のことは当時は「てんのう」ではなく、「すめらみこと」と呼んだ。「すめら」は「統べる(すべる)」のこと、つまり「天から統治する人」であった。
天皇は一人しかいなかったので名前で呼ぶ必要はなく、当時の習慣からしても名前を口に出すことははばかられたので、ただ「すめらみこと」と言えば良かったのである。だが、当サイトでは便宜上、即位後の名として記しておく。 

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