前のページに戻る
 平成19年キャンプ
 平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン Part4
佐 紀 古 墳 群
 佐紀古墳群のひとつ、成務天皇陵
 神功皇后陵から700メートルほど南の位置で、3つの陵墓がひとかたまりに並んでいる。
 写真にも写っているが堀の外はすぐ宅地になっていて、子どもたちが道路で遊んでいた。
 天皇のお墓のすぐ傍で暮らすってどんな気持ちなのかなあ・・・と、そこに住む人たちにインタビューしたい気分になった。
 「お墓のそばに住むのは嫌」と言う人はいるものだが、こんなお墓だったらOKに違いない。
 なにしろ緑が多くて常に水を湛えた堀があるから、夏は涼しい。そして、万が一にも高層ビルが建つ心配もない。実に羨ましい環境だ。
 さて、13代・成務天皇は仲哀天皇の前の天皇で、在位は131年から190年。12代・景行天皇の子とされている。もちろん「古事記」や「日本書紀」の記述だ。
 やはり実在性には疑問が持たれているものの、実在したとするならば4世紀半ば頃と言われている。 
 くっつき合った3つの陵墓群。わたしは成務天皇陵と孝謙天皇陵の間にある、画像左側の道路から入った。そこは階段になっていて、住宅が建ち並んでいた。
 次に東側にある「日葉酢媛命陵」を見学。
 これまで古墳のまわりをウロウロしていて人に会うことはまったくなかったのだが、ここではワンコ連れのお父さんが三組も歩いているのに出くわした。もちろん、それぞれお友だちというわけでもなく、無言のまま別々の方向に消えていく。
 ワンコのお散歩コースにはうってつけらしく、古墳を見に来ているのはわたし一人だった。なんだか浮いているような印象を受ける。
 それに、ワンコたちが立ち去った古墳周辺は夕方の寒々しい空模様と相まって、妙に寂しい雰囲気であった。
 こちらが「日葉酢媛命陵」。日葉酢媛命と書いて、「ひばすひめのみこと」と読む。
 「古事記」「日本書紀」によると、垂仁天皇の二番目の皇后となり、景行天皇を生んだとされる。
 彼女が崩御して葬儀が行われたとき、臣下の野見宿禰は殉死制度をやめ、殉死者のかわりに埴輪を陵墓に埋葬することを提案したと、「日本書紀」には書かれている。
 当時は主君に仕えていた者たちが自ら進んで王墓に入り、殉死したという。
 しかし、現在の考古学では、野見宿禰の提案が埴輪(はにわ)のルーツであるというこのエピソードを否定している。
 さて、3つの陵墓の南側に位置する孝謙天皇陵だけは、正面位置が他の2つとは違う方角にあった。
 お散歩のワンコに続いて木立の間を入ってみたが、うっそうとした雑木林が続くばかりなので、途中で引き返した。
 あとでグーグル・マップを見てわかったのだが、前方後円墳はすべて南北に対して縦位置で置かれている。丸い方が北で、バチ型の部分が南だ。
 丸い部分が墳墓で、バチ型の部分が参道にあたるとすると、当然正面はバチ型の底辺、つまり南側ということになる。
 それに気づかず、わたしは孝謙天皇陵の正面を探して無用にウロウロしてしまった。
 けっきょく正面の発見は諦め、来た道を引き返した。すると、階段の手前の住宅にいた白い犬が突如吠えかかってきて、わたしは驚きのあまり悲鳴を上げた。
 見れば先ほど散歩していたワンコで、わたしが「可愛いねー」となでなでしたヤツだ。
 やあねえ。さっき会ってるのに、どうして吠えるのよ。(怒)
 わたしが階段を下っていくのに従って犬も敷地の中を回りこみ、なおも吠え続けてくる。見慣れない不審者だと思われたに違いない。
 階段を下り、夫が待つ車に向かって進みかけたところで、田んぼの向こうに陵墓の正面口があるのに気がついた。
 写真だけでもと思い、田んぼのあぜ道を通って近づく。
 ちょっとわかりづらいが、こんもりした木々の右側に白い鳥居が写っている。その右側に建つ家みたいなものは事務所だ。多くの陵墓に備わっている詰所みたないもので、普段は誰もいない。
 孝謙天皇は養老2年(718年)生まれの、第46代天皇である。聖武天皇と光明皇后の娘で、阿倍内親王という。
 弟の基王は生まれて早々に皇太子となったが早世したため、彼女が皇太子に擁立された。女性が皇太子になるのは史上初のことである。
 これまで女帝は5人いたが、いずれも夫である天皇亡き後に即位するか、女帝から娘の皇女にバトンタッチされたものだった。
 聖武天皇には別の妃との間にも安積親王という皇子がいた。聖武帝はおそらくこの親王に皇位を譲るつもりではなかっただろうか。
 しかし、親王は744年、17歳の若さで急死してしまった。(藤原仲麻呂に暗殺されたという説が有力。詳しくは「光明皇后と吉備内親王」をどうぞ)
 749年、聖武帝は阿部内親王に譲位した。東大寺の建立が始まるのも、ちょうどこの年である。
 32歳で天皇となった孝謙は、母・光明皇太后と仲麻呂のサポートを得てつつがなく政治人生を送る。
 そして758年、39歳で天武帝の孫にあたる大炊王に譲位し、上皇となった。
 実は聖武帝が皇太子にと遺言していたのは道祖王という、やはり天武帝の孫だったのだが、仲麻呂が女帝を動かして強引に廃太子にしてしまったのである。
 次に選ばれたのが大炊王というわけだが、実は彼は仲麻呂の家の婿であった。
 大炊王は即位して淳仁天皇となるも、政治の実権はほとんど光明皇太后と藤原仲麻呂が握っていたという。
 760年、光明皇太后が死去した。孝謙は間もなく病にかかり、病気を治す呪術師として弓削道鏡という僧が治療にあたった。
 道鏡の献身的な看病によって孝謙は健康を取りもどし、やがて道鏡を寵愛するようになった。
 おそらく、この頃の孝謙は孤独の中にいた。仲麻呂は淳仁べったりで政治に夢中、自分の方を顧みなくなった。頼りにしていた母も他界した。そして孝謙は天皇という立場上、独身を余儀なくされていた。
 頼れる人もおらず気弱になっているところへ献身的な奉仕を受けたので、ほだされたに違いない。道鏡はひじょうに教養の高い僧で、野心があったかどうかはわからないが、とても誠実で献身的だったのだろうと思う。
 仲麻呂は叔母で後見人でもあった光明皇太后が亡くなったこともあって、道鏡の存在に脅威を感じたのだろう。淳仁を通して諌めさせたが、そのことで孝謙は激怒し、淳仁から政治の決定権を取り上げてしまった。
 仲麻呂は反乱を起こそうと企てるが、事前に発覚したため平城京から逃亡。近江へと逃れるが闘いに敗れて捕らえられ、琵琶湖で処刑された。
 乱の翌月、孝謙は淳仁を廃位して淡路島に流した。そして重祚し、称徳天皇となったのである。764年、孝謙は46歳になっていた。
 淳仁廃帝は翌年、島で死亡した。
 称徳となった女帝は道鏡を重用したが、藤原一派からの不満が絶えなかった。道鏡を愛するあまり天皇に据えようとしたが失敗したなどのエピソードがあるが、詳細については省く。
 そして53歳で崩御し、高野陵(たかののみささぎ)に葬られた。道鏡は下野国(栃木県、群馬県のあたり)に左遷され、歴史の表舞台から姿を消す。
 彼女は結果的に、天武天皇系最後の帝であった。生涯結婚を許されず、子もなかった。
 天武天皇の孫である道祖王も政争により死亡していた。
 権力闘争の果て、ふと孝謙が周囲を見渡したときには一人の血縁者も残っていなかった・・・哀しくも笑わずにいられない一生であった。
 ここに天武系の血統は途絶える。
 
 余談であるが、群馬の沼田方面から栃木の日光湯元温泉に抜ける峠道は「金精峠」、あるいは「金精道路」と呼ばれているが、名前の由来をご存じだろうか。
 実は道鏡の男性自身を奉った金精神社が峠に鎮座していることから、この名が付けられたのである。
 男性のシンボルをご神体とした神を金精神といい、特に東北地方から北関東にかけて多く見られるという。容易に想像がつくが、子宝、安産、子孫繁栄に霊験があるとされている。
 金精峠は何度となく通った道だが、そこに道鏡ゆかりの(本人は関知していないが)神社があったとはひじょうに驚きである。次回通るときは必ず金精神社にお詣りするつもりである。
 本当はこの神社が建てられた逸話について書きたいのだけど、上品な(笑)このサイトにはどうかと思うような下半身ネタになってしまう上、そういうワードが検索にひっかかるのも嫌なので、やめておくことにする。
 ウィキペディアのこちらのページに書いてあるので、興味のある方はお読みください。(って、皆さんそっち読みに行くんだろうな。)
←金精峠から見おろした湯ノ湖。ちなみに栃木県黒磯市にある「大正村 幸乃湯」の金精様はこちらで見られます。
 話を孝謙天皇陵に戻すが、彼女の陵墓としてはなんだか納得がいかないと思うのはわたしだけだろうか。一体どうして、こんなにも時代の違う成務帝と日葉酢媛命の陵墓のそばに葬られたのだろう。
 様々な見地からみても孝謙天皇陵としては疑いが持たれているそうなので、神功皇后陵の次はぜひこちらを内部調査してもらいたいものだ。
ゆ ら ら の 湯
 孝謙天皇陵の見学を最後に、日も暮れたことだし、わたしたちはトレーラーを停めている駐車場目指して帰途に着いた。
 途中、日帰り温泉「ゆららの湯に」立ちより、一日の汗を流す。
 そして、ジャスコでおせちや豆乳しゃぶしゃぶの材料を購入して、駐車場に戻った。
 が、出入り口はチェーンで閉ざされていた。詰所の張り紙で、今夜は11時まで出庫できるとあったので、入れると思っていたのだが。
 詰所の中に人がいるようなので、声をかけてチェーンを外してもらった。
 係員は2人に増えており、「これから初詣の車で混んでくる。東大寺の前の駐車場の方に移動しては?」と言ってきた。
 邪魔だから大型レーンのある東大寺Pに行ってほしいということなのか、そっちの方が初詣に近いよ、という親切心で言ってくれているのか、真意がわからない。結局、わたしたちはここに留まることにした。
 すでにここの駐車場代を支払ってしまっているので、移動したらまたあちらで支払わなければならなくなるからだ。
ふ た り だ け の 大 み そ か
 夫はさっそく鍋の準備にかかり、わたしはおせちを重箱に詰めて新年に備えた。
 やがて紅白歌合戦が始まった。
 鍋をつつき、お酒を飲みながらのんびり過ごす大みそか。なんて素敵なんだろう。
 そもそも奈良で年越しというのがいい。理由はわからないが、とにかくいい。
 すぐにTVゲームをやるか、カートゥーンを観たがる子どもらに邪魔されず紅白を観られるのもいい。普段は歌謡曲なんてほとんど聴かないのだけど、だからこそ一年の締めに紅白は欠かせないのだ。
 今年はワースト3に入る低視聴率だったそうだが、応援合戦やコント的な企画はすっかり省き、真摯に歌で勝負した点が評価できる。
 演歌が続くとちょっと飽きるが、長山洋子が立ち弾き三味線で歌う「じょんから女節」はよかった! 演歌ロックとも呼びたいかっこよさだ。
 別の演歌ではバックのマッスルシアターの演技が素晴らしくて、歌そっちのけでバックの演技に見入ってしまった。
 秋川雅史の「千の風になって」は相変わらず感動的。

↑夫が作ってくれた豆乳しゃぶしゃぶ。すっごくおいしかった!
 SMAPはトリじゃなかったけどエンディングに登場し、出演者総出で「世界で一つだけの花」を歌う。これもなかなか感動的だ。
 最後にリボンつきタクトを持った指揮者が登場して、全員で恒例「蛍の光」を歌う。
 この場面で、なんでわざわざ指揮者が必要なのか意味不明だ。タクトを振らないと歌手の皆さんが歌えないとも思えないが。
 まあ、いずれにしても「蛍の光」を聞くとスーパーの閉店時間・・・じゃなくて、「ああ今年も一年が終わるのか」という実感が湧いてきて、感慨深い。
 指揮者役の平尾昌晃はたったこれだけの短い出演のために、何時間も待機していたんだろうなあ。そう言えば、数年前までは宮川泰が指揮者だったのに・・・など思いながら、これまた感慨にふける。
 鶴瓶&中居くんの司会を除けば(リア・ディゾンもいらない)、ここ数年の紅白では高品質の出来だと思う。次回も不必要なお祭り騒ぎはなしにして、地道に歌合戦してもらいたい。
東大寺:除夜の鐘と初詣
 紅白が終わる直前、急いで年越しそばをすすりこみ、わたしたちは東大寺へと向かった。
 トレーラーの外に出ると、周囲は乗用車でぎっしりだった。
 紅白を観ている途中から周りが雑然としていた。車のエンジン音、ドアの開け閉めの音などが次第に近づいてきたことから、そろそろ満車に近いなとはわかっていた。
 皆、東大寺にやってきた初詣の車だ。
 駐車場を出ると、除夜の鐘の音がどこからともなく聞こえてきた。
 生まれて初めてかどうかはわからないが、少なくとも大人になってから除夜の鐘の音を生で聞くのは初めてのこと(毎年テレビだもんね)。
 闇のなか響き渡る除夜の鐘はたいへん厳かで、なんとも神秘的だった。しかし、それは東大寺の鐘の音ではなく、別のお寺の鐘らしい。
 とにかく東大寺へと先を急ぐわたしには、ゆっくり鐘の音を聞く余裕はなかった。
 年越しそばを用意するタイミングが遅れ、急がないと年が明けてしまう。今年中に東大寺の中に入って、そこで新年を迎えたいのである。本当は紅白が終わると同時にトレーラーを出ようと思っていたのだが、そばのことをころりと忘れていたのである。
 猛ダッシュで坂を駆け上り、奈良公園を走り抜け、東大寺に辿り着く。はあはあぜいぜいと南大門にやってくると、行列ができていた。
 やっぱりすごい人出だ。
 列の歩みは非常にゆっくりしていた。時々進むが、止まっている時間の方が長い。こんなのに並んでいたら、新年になっちゃうじゃん。と、心が焦る。
 わたしは列の先がどうなっているか探るため、夫を残して一人先に進んだ。
 なかなか進まない列を横目で見つつ門をくぐり、大仏殿に視線を向ける。
 すると、大仏殿の窓が開いているのが目に入った。
 窓から大仏の顔が見えているのに、あっと驚く。
 なるほど、これが一年に一度、大みそかだけ見ることができる光景なのか。
 ぼーん、と除夜の鐘が鳴り響き、お経を読む声も聞こえてくる。
 ああ、これが日本の大みそかだわ。
 とっても、とっても感動! 
 行列は、大仏殿まで続いていた。しかし、それに並ばずどんどん進んでいく人たちも多い。これは横入りなのか。それとも、別の理由があるのだろうか。
 原因を突きとめるべく、わたしはなおも先に進んだ。 
 階段を昇ってみて、行列の理由がようやくわかった。階段の中央に線香を焚いた爐(ろ)があって、皆それに並んでいたのだ。
 並ばない人は爐を素通りし、そのまま大仏殿に入っていく。なーんだ、お焼香のために並んでいたんだ!
 わたしは夫に電話をし、そのことを伝えた。こちらはとっくに大仏殿の中に入っており、夫が来てくれないと間が持たない。
 しかし、夫は「いや、このまま待つ!」と断言。深く理由を問うと、「横入りしたら地獄に堕ちる!」だって。おいおい。
 じゃあ、わたしは地獄に堕ちるんですか。でも、これは横入りじゃなくて、焼香を省いて直接大仏殿に入ったんだもんね。それとも焼香で穢れを払ってからじゃないと御利益がないとか。
 あれこれ考えているうちに時刻は進み、零時を過ぎた。2008年の幕開け。この瞬間から日付は1月1日である。
 東大寺の大仏殿で、除夜の鐘とお経を聴きながら迎えた新年。夫がそばにいなかったのが想定外だったが、実に感動的である。
 お経を聴きながら手を合わせ、大仏様のお顔を眺めていたら、なんだか涙が出そうになった。
 普段はお葬式や法事でしかお経を聴くことはないし、「早く終わんないかな〜」なんて、一生懸命お仕事をされているお坊さんには大変失礼なことを考えている。
 だが、お経というBGMがここまで感動を盛りあげるとは、本当に予想していなかった。
 実は某仏教系大学を出ているにもかかわらず、わたしは無信心者だ。宇宙のどこかに神に等しい存在がいるのではとは思っているが、特定の神や仏は信じていない。だが、「バチが当たる」という観念は常に心のどこかにある。おそらく日本人の多くがそうだろう。
 そんな心の片隅の一片の信仰心がこの時だけは頭をもたげ、「いつか死んだら、み仏の元へ」と思わずにはいられなかったのである。
 おまけに昼間は光線の加減で見えなかった大仏様の黒いまなこが、この時はしっかりと見てとれた。
 「ひょえ〜、わたしを睨んでる。やっぱり横入りがいけなかったんだわ」と、思わずビビってしまった。
 その時、わたしの隣に立っていた女性がふいに地べたに座りこんだ。大仏を仰いで両手を合わせていたかと思うと、延ばした両手を床につけ、深々と礼拝したのである。
 女性をよくよく観察すると、日本人そっくりな風貌ながら台湾かどこかの国の人だと思われた。
 驚いたが、これが正式なお詣りの仕方なのかも知れない。こんなに混雑した東大寺で全員が座りこんで礼拝したら、どんな光景になるだろう。
 いくら待っても夫が来ないので、わたしは一人で大仏の周りをぐるりと一周してみた。
 柱の穴くぐりに挑戦する若者たち。ぎゃはは、と大きな笑い声が大仏殿にこだまする。
 東北の隅にある多聞天像。夜の仏像は昼間とはまた違った雰囲気があって、凄み満点。
 それに昼は逆行でうまく撮影できなかったが、夜の方がよりきれいに見える。
 ぐるりと一周してきて再び大仏の前に戻ってきたら、ちょうどお経が終わったところだった。
 午前0時から約40分が過ぎていた。
 立ち上がったお坊様たちが互いに挨拶を交わし、やがて階段から下りてきた。草履を履いて立ち去るお坊様たちを、周りの参拝客が一礼して見送る。
 前をお坊様が通り過ぎたとき、わたしもお辞儀をしていた。
 あまりに夫が遅いので、わたしは行列に戻った。
 夫はまだ生真面目に並んでいる。もう1時間くらいになるだろうか。長いこと一緒にいたので、前後の人たちともすっかり仲良くなっていたところが彼らしい。
 ようやく爐の前まで辿り着き、夫は律儀にお線香を上げた。しょうがないから、わたしもそれにつきあう。そして、これで3度目となる本殿参拝を済ませた。
 結局、行列をスルーしても待つことになったけど、お経をあげているうちに本殿に入ることができてよかったと思う。 
 このあと大仏殿を出たわたしたちは火にあたりながらスパークリングの栓を抜き、乾杯をした。
 まわりに居合わせた人たちにも振る舞い酒をして、一緒に新年を祝う。
 今年も無病息災で、幸せな一年でありますように。
 
   

前ページに戻る 進 む


[平成11年Top] [平成12年Top] [平成13年Top] [平成14年Top] [平成15年Top] [平成16年Top] [平成17年Top] [平成18年Top]
[平成19年Top] [県別キャンプ地一覧][県別温泉一覧] [トレーラーってなに?] [子どもと一日遊べる場所][掲示板][HOME]

杉江家のどこでも別荘:キャンプ日記
Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容などすべての転用を禁じます。