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 平成19年キャンプ
 平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン Part3
垂 仁 天 皇 陵
 奈良市尼辻西町というところにある垂仁天皇陵は、全長227メートル、前方部の幅118メートルの巨大な前方後円墳だ。
 古墳名は蓬莱山古墳といい、宮内庁の看板には「菅原伏見東陵」とある。
 「古事記」「日本書紀」によれば、垂仁天皇は紀元前69年に生まれ、紀元後70年に没した第11代天皇。在位は紀元前29年から、なんと99年間にも及ぶ。
 崇神天皇の第三皇子で、全国に池を創って農業を盛んにしたと、「日本書紀」には書かれている。都は現在の奈良県桜井市にあった纒向珠城宮。
 垂仁が生まれたとされる崇神天皇29年(紀元前69年)の日本は弥生時代であった。
 古代ローマがヨーロッパを支配し、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が活躍した時代と重なる。
 日本では3世紀中頃から古墳時代へと移行していった時代。天皇を頂点とする統一的政権が成立したのは、巨大古墳が登場する以前ということになる。 
 「日本書紀」は現存する最古の正史である。
 「天地のはじめ」に始まってイザナキノミコトとイザナミノミコトの「国産み」の話、アマテラスが天の岩戸に隠れてしまうエピソードを経て、第三巻で初代・神武天皇の即位を描いている。
 だが、その年を紀元前660年としており、信憑性に欠ける。それ以降の天皇においても25代くらいまでは、実在性や事蹟の史実性が疑われる人物がほとんどだ。
 記述を裏づける証拠が出てこないからなのだが、それは天皇の古墳、つまり陵墓内の調査がほとんどなされていないせいもあると思う。
 陵墓は宮内庁の管轄なので、発掘調査ができないのだ。これについては、後ほど書くことにする。 
 こうした事情から、考古学上では507年に即位した第26代・継体天皇あたりからが、ボチボチ正確な史実であると認められている。
 この陵墓の主とされる垂仁天皇も実在性が疑われる天皇の一人だ。しかし一方で、その父・崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王である可能性が高いとされている。
 実は、崇神天皇あたりからようやく全国支配の政権になるが、それ以前は近畿地方に限られた小さな政権だったと言われている。ある箇所で王朝が交代したとする説もあり、そうした各種の系統を一本の糸に紡ぎなおしたのが「日本書紀」なのだ。
 興味深いのは、「日本書紀」が天武天皇の命で編さんされたとされることである。
 「天皇」の称号が最初に用いられたのは、天武朝からだといわれている(推古天皇からという説もある)。
 また、天武帝は武力で大友皇子を倒し、近江王朝から帝位を奪った反乱者でもある点を考え併せると、正史を編ませた理由が垣間見えてくる。
 天武には自らの正統性を示しつつ、天皇が日本を支配した経緯を説明する必要があった。
 それゆえ「日本書紀」は伝説上の王を祖先とし、別の王朝なども系譜に繋げて編纂された。そして多少の脚色、歪曲、隠蔽も交えながら、天武帝が皇位踏襲に至る過程を1巻まるまる割いて記述したと考えることができる。
 神話部分に関して言えば、わたしは「嘘ばっかり」だとは思っていない。一見荒唐無稽に思える神話にも、歴史の真実が含まれていると解釈することは可能に違いない。ただ証明が難しいというだけで「日本書紀」の人物たちを全部架空のものだと切り捨てることは、古代の人々の心を切り刻むに等しい暴挙だと言わざるを得ない。
 というわけで、実在したかどうかは不明ながら、わたしはとりあえず車で近くまで行って周りを歩いてみることにした。
 周囲にはのどかな田園風景が広がり、古墳に添って作られた細い道は車が一台やっと通れるほど。
 傍目にはただの森としか思えないが、近づいて行くにつれて周囲の堀が見えるようになった。
 宮内庁の「みだりに域内に入らぬこと/鳥魚等を取らぬこと/竹木等を切らぬこと」という威圧的な注意書きの横を通り過ぎ、砂利が敷きつめられた小径を奥に進む。
 地上からだとまったくわからないが、前方後円墳は昔の錠前のカギ穴みたいな形をしている。
 わたしが立つのは、カギ穴の左下の位置にあたる場所だ。堀の中には「陪塚」と呼ばれる丸い墳墓が浮かんでいる。
 これは垂仁天皇の命令で常世の国へ不老不死の果物を探しに行った田道間守の墓と言われている。
 陪塚の向こうを黄色い列車が通り過ぎていった。
 陪塚はメインの被葬者の親族や臣下を埋葬した他、副葬品を納めるために作られたものだと考えられている。
 小径を奥まで進むと、施錠された門と石造りの鳥居があった。とにかくひっそりとしており、わたしの他には誰も訪れる者もいない。
 ただ鳥の声だけが響き渡っていた。
 
 垂仁天皇天皇陵
 ■近鉄橿原線の尼ヶ辻駅から徒歩7分
 ■駐車場なし
平 城 宮 跡
 奈良市の地図を広げると、至るところに古墳が点在しているのに気づく。あっちにもこっちにもナントカ陵、ナントカ古墳の文字。知らないのもあるが、知っている天皇の名前だったりすると無性に行ってみたくなるのは不思議な性である。
 見たからといってなんだっていうんだ、と問われれば、返す言葉もないが。
 ところで日本には、天皇・皇后の陵墓とされるものが186箇所あるという。
 古い時代のものには円墳や前方後円墳など高塚式の広大なものが多く、中でも大阪府堺市にある仁徳天皇陵は三重の濠をめぐらす大きな前方後円墳で、面積だけでいうとクフ王のピラミッドを凌ぐという。
 巨大古墳は権力の誇示をはかり、天皇を頂点とする統治国家を確立させるための非常にわかりやすい巨大広告塔だ。やがて時代が下るに従い、仏教の影響もあって火葬が行われるようになったのと、埋葬に関する法令もできたことにより陵墓の規模は小さくなっていった。
 むしろ身分制支配が確立してからは、巨大古墳の社会的役割は低くなったと考えられる。
 さて、古墳めぐりをしながら東大寺方面に車を走らせていると、平城宮跡に差しかかった。
 平城宮は元明天皇により710年に遷都された平城京の大極殿正殿のあったところで、784年まで都の中心であった。
 広さは120万平方メートルあまり。奈良市のほぼ中央に位置しているにも関わらず、広々とした野原として保たれてきた。
 それでも地図全体を眺めると、平城宮跡の広大な敷地のど真ん中を「みやと通り」が縦断し、北側では鉄道が横切っていたりして驚かされる。
 大極殿跡では現在、第一次大極殿の再建が進められており、完成は平成22年とのこと。
 左画像がその建設中の大極殿だが、最初はマンションの建設現場かと思ってしまった。
 ちなみに第一次というのは恭仁京に遷都されるまでの大極殿のことで、再び都が戻ってきてからを第二次と呼んでいる。(詳しくは「光明皇后と吉備内親王」をどうぞ)
 夫と「2年後に完成したら見にこようか」なんて話したが、ぴっかぴかの復刻版を見て果たして楽しいかどうかはまた別の話である。
 
平成22年6月20日追記:
ぴっかぴかの復刻版を見学してきました!(笑) レポはこちら→
神 功 皇 后 陵
 神功皇后陵に行こうと走っていたら、右側に塩塚古墳という名の古墳が見えた。
 すぐ隣りに民家、あとは畑ばかりの土地にこんもりと木々が盛りあがっている。
 詳細は不明だが、「とんでもとらべる」というサイトの「佐紀盾列古墳群」のページで詳しく紹介されているので、ご覧ください。
 佐紀盾列古墳群とは、佐紀丘陵の南斜面に作られた佐紀古墳群のひとつ。
 これから見る神功皇后陵も、その次の3つの陵墓も佐紀古墳群の一部になる。
 古墳時代前期後半から中期、つまり4世紀末から5世紀前半にかけての大和王権の墳墓であると考えられている。
 このあと左側に成務天皇陵の木々が見えてきたが、ここはいったん素通りする。
 佐紀古墳群でもっとも北に位置する神功皇后陵にやってきた。名称は「五社神古墳」。
 なにっ、ただの土手じゃあないかって?
 そうなんです。こんもり小山は見えるが、どこが古墳の正面なのか地図を見てもわからない。そこで土手にできているケモノ道?を強引によじ登り、覗いてみた。
 よく考えたら「カギ穴」の形の底辺部分が正面なのだから、そちらにまわれば良かったのだが。
 神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母とされる人物。
 夫が急死したあと住吉大神のお告げによって朝鮮半島に出兵し、新羅国を服従させたという。
 このとき皇后は妊娠しており産み月が近かったが、お腹に石をあててさらしで巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。
 帰国後は反乱を平定し、長年にわたり政治を取りしきった。
 墳墓の隣りは、個人の畑だった。
 わたしは畑に添って、墳墓正面にある鳥居に向かって歩いていった。あたりには人っ子ひとりいない。
 農作業している人に出くわしたらバツが悪いと思ったが、農閑期のせいか誰もいなかった。
 ところで、お腹に石を巻いて出産を遅らせるなんて、本当にできるのだろうか?
 もちろん、そんなことは不可能としか言いようがない。臨月ともなればお腹が前に突きだし、足元が見えにくくなる。
 そんな状態で大きな石なんか巻いたって、焼け石に水だ。しかも、一人で歩くこともできなくなる。彼女は戦場に身を置き、敵に対陣していたのだ。どう考えてもありえない話である。
 これには大和王権と卑弥呼を関連づけさせるために作りあげた伝承だとする説や、「卑弥呼のような巫女の王だった」という説などもあり、そう考えるとこんなナンセンスも納得がいく。
 日本書紀の執筆者は神功皇后の巫女的な神がかりを強調することにより、天皇家の神秘性を高めたかったのだろう。 
 もしも、さらしで石を巻くという行為が事実あったとしたら、産み月をごまかすためのパフォーマンスだったに違いないと、わたしは考える。
 実は夫の死後に別の男性の子どもを宿したが、石を巻いて出産を遅らせたと言いふらしたのではないかと、ついつい想像力をフル回転させてしまうのだ。
 しかし、神功皇后が万一実在しなかったとなれば、わたしは一体誰のお墓を見にいったわけ? と、ちょっと腹立たしい気分にもなる。
 古墳めぐりをする歴史ファンは多いのだから、国はそのあたりをしっかり調査してもらいたいものだ。
 実際、考古学者は陵墓の内部調査をしたくてウズウズしているらしい。だが、宮内庁が立ち入りを許可しないため、なかなか調査できないでいる。
 宮内庁に指定された陵墓の多くは、近代的な考古学や歴史学が成立していなかった明治時代以前に書かれた書物や、「日本書紀」「古事記」その他に記された歴代天皇の埋葬先と地名を比定して定めたものがほとんど。
 唯一の例外は天武・持統天皇合葬陵で、盗掘時の調書によって両天皇の陵墓であることがはっきりしているという。
 しかし、立ち入り調査がされない陵墓は本当にその天皇のものなのか、いつまでたっても確かめるすべはない。 
 特に困惑させられるのは、実在が否定的な天皇のものだとする陵墓が存在することだ。
 神功皇后の夫・仲哀天皇も「架空の人物説」が強いが、大阪府の岡ミサンザイ古墳がその陵墓であると比定されている。
 日本書紀と古事記の記述に「そのあたりに葬られた」とあるからだが、それらの書物が神話をベースに書かれたものだということは、先に述べたとおりだ。
 にもかかわらず、宮内庁がそれらの陵墓を調査し、訂正しようという動きはみられない。
 移動する車の中で、、
 「なにが出てきても、今さら皇室の是非を問題にすることはないでしょ。調査すべきだよね」
 などと話すと、夫も、
 「今の皇太子は現代的な人だから、きっと変わるんじゃないか」
 と言う。
 ところが、こんな会話の十数日後に神功皇后陵調査のニュースが飛びこんできたので、非常に驚いた。わたしたちの会話、盗聴されていたのかしら。(爆)
 以下はasahiドットコムからの記事だ。
 
 『神功皇后陵は第14代仲哀天皇の妻だった神功皇后の埋葬地とされ、古墳時代のものと言われている。これまで同庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」として、陵墓の学術調査を認めなかった。だが、昨年1月に陵墓管理についての内規を変更。調査範囲は限定的だが、申請があれば審査して調査を受け入れるようにした。 
 今回の許可で、研究者は1段目の平らな場所まで立ち入り、撮影も可能だが発掘はできない。調査は2月中旬ごろになる見通しという。』
 
 以前の改修工事の時の調査で、この陵墓が女性のために作られたものであることは判明している。今回の調査により、神功皇后の真実に迫ることができればと願う。
 夫亡きあとも権力を維持し続け、(善悪は別にして)他国を攻める勇気と行動力を持った女傑の功績が創作とされるのは、いかにも残念だ。強くて高貴な女性に憧れるわたしとしては、ぜひとも神功皇后が実在の人物で、その活躍も史実だったことにしてもらいたいと思っている。
 
   

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