杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 

 
平成20年12月31日(水)〜21年1月3日(土) Vol.246
恒例!年末年始キャラバンA〜斑鳩
  2009年1月1日(木) 法隆寺
 昨年に続いて、今年も大好きな法隆寺を訪れた。
 前回はデジカメのバッテリー切れとなり、携帯カメラで撮影したことが心残りだったことや、法隆寺の奥にあって見損ねた中宮寺を訪れたいというのが再訪の理由だった。
 さて、法隆寺は聖徳太子邸がある土地に建てられた日本最古の木造建築群であることは、前回のレポで述べたとおり。 
  前回の法隆寺レポ
  太子生誕の飛鳥寺
太子と皇族の系図
 世界遺産・法隆寺を最初に建立した人物は言うまでもなく聖徳太子だが、近年はこの人物を厩戸皇子、もしくは厩戸王と呼ぶ傾向が強いようだ。
 聖徳太子という名は後世の諡(おくりな)、つまり死後かなり経ってから贈られた追号だから、というのがその理由である。生前はそう呼ばれていなかったのだから、本当の名前で呼ぶのが正しい歴史の解釈というものだ、ということらしい。
 これについては特に反対もしないが、そうなると、ほとんどの歴代天皇にもそれを適用しないといけないことになるのではないだろうか。
 まあそれはともかく、ここでは聖徳太子の名前について説明しておこう。
 彼の本名は厩戸(うまやど)。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)である。この名前は、厩戸という土地で産まれたためではないかというのが、近年もっとも有力な説とのこと。
 他に上宮王(かみつみやおう)という呼び名もある。これは父親が宮殿の南にある「上大殿(かみつおおどの)」を太子に与え、住まわせたことに由来するそうだ。
 専門家ではないので確かなことはわからないが、「厩戸」が本名、つまり「諱(いみな)」で、「上宮王」が普段呼ばれる尊称だったのではないかと思う。
 諱とは、本当の名前のことである。これは「忌む」という言葉に通じ、貴人の名を軽々しく口にしてはならない、諱で呼びかけることは失礼だ、という考えによる。
 しかし、名前を呼べないのは不便なので、通称が用いられることになる。それが厩戸皇子の場合は上宮王だったのではないかと、わたしは勝手に想像している。
 念のために書き添えておくが、天皇の名前、推古とか用明といったものも、「諡」(おくりな=贈り名)である。当時の人々がこの名で天皇を呼んだわけではないのは、現代の天皇においても同じ。
 ちなみに孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は生前から宝字称徳孝謙皇帝と称しており、諡はない。
 父親の聖武天皇も生前から聖武皇帝と名乗っていたが、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)という諡を贈られている。
 さて、それでは法隆寺については前回のレポとだぶる箇所もあるが、新しい画像と新ネタを加えてご紹介していこうと思う。
 日本各地に五重塔はあるが、法隆寺のものが日本最古とされる。
 左下の画像は「金堂」と五重塔。中央奥に見えるのは中門だ。
 金堂は国宝で、入母屋造の二重仏堂である。手すりや装飾などに、7世紀建築の特徴が見られるという。
 2階建てのように見えるが、上に部屋はないそうだ。
 金堂内は見学できるものの撮影禁止。内陣の壁や天井には見事な壁画装飾があり、古代のアジア仏教美術として大変貴重なものである。しかし、それらはすべて模写なのだ。
 実は1949年(昭和24年)、壁画の模写作業中に発生した火事より内陣が焼失してしまったのだ。
 だが、解体作業中ということが幸いし、飛天の壁画20面は別の場所に移されていたため難を逃れた。
 この火事がきっかけで文化財を保護するための法律が制定され、火事のあった1月26日は文化財防火デーとなった。この日になると必ず、神社仏閣での消火訓練がニュースで放送されたりする。 
 焼失をまぬがれた壁画は厳重に保管されており、また金堂内部には模写とはいえ素晴らしい天人たちの姿が描かれている。
 これらの壁画は、模写にあたっていた14人の画家たちが火災後も長い歳月をかけ、写真などから本物と寸分違わぬ作品を創りあげたものだという。
 金堂壁画は法隆寺内にある大宝蔵院で実物を見ることができるし、「台東区ヴァーチャル美術館」や「東京大学総合研究博物館 デジタルミュージアム」でも画像が紹介されている。
 
 金堂の時代考察についてはこちら

 大講堂。仏教の学問を研鑽したり法要を行う施設として建立されたが、延長3年(925年、平安時代は醍醐天皇の時代)、落雷によって焼失した。
 正暦元年(990)に再建され、そのとき創られた薬師三尊像と四天王像が安置されている。国宝に指定。
 見学のため中に入ると、なぜか瓦が並べられていた。気になって見てみると、「屋根瓦のご寄進」とあって、お金を出してくれたら瓦に名前が書けるよ、というようなことが書かれている。
 わたしが「ふーん、寄付して瓦に名前を書くんだって」と呟くと、夫が「えっ」と足を止めた。
 夫は元々好きで寺院周りをしているわけではない。学校の勉強で一番苦手だったのが歴史だそうだが、それでもわからないなりにわたしの趣味につきあってくれているのだ。
 そんな彼が、「瓦に名前を書ける」ということには並々ならぬ関心を示した。やろう、やろうということになって、さっそくお金を払い、筆をとる。
 この瓦は大講堂の屋根を葺き替えるとき本当に使われるそうで、職員さんによると「もしかしたら他の屋根に使われるかもしれない。余って使われないこともあります」とのことだった。
 余ってしまうというのも悲しい話だが、大工さんがうっかり落として割ってしまうということも、万に一つくらいはあるかもしれない。
 が、もしそうならなければ、わたしたちがこの世から去った後、何百年も名前の書かれた瓦が法隆寺の屋根を守り続けるのだ。なんとスケールの大きな寄付なんでしょう。
 すごい! これぞロマンだ!
 趣旨に感動したので、わたしも願いをこめて筆を走らせる。サラサラ・・・
 うわっ、下手っぴいじゃ。ああもう嫌になる。書道やめなければ良かった。
 しかし、書いたことはロマンとはほど遠いことばっかり。おまけに子ども受験しないし。
 夫も負けてはいない。彼が2枚目の瓦に書いたのは「川瀬葉月 ヒット祈願」。おいおい。
 合計3枚の瓦にありったけ願い事を書き、名前をしたため、職員のおじさんに託す。
 お願いだから割らないでね。
 あとで調べたら、「法隆寺:屋根瓦を全面的にふき替え 新年度から70年ぶり」という記事を発見。それによると、「大講堂は1938年に解体修理されたが、古い瓦が寒さで割れるなど劣化」とある。完成は2011年の春だそうだ。
 前回の修理はちょっとずさんだったらしい。だから70年後の今年、修理が必要となった。
 しかし、今回は屋根の防水処理や木の防腐処理をしっかり行うだろうし、技術の進歩も進んで割れにくい瓦が開発されているに違いない。
 よって、次の修理は500年後とみた。500年もわたしたちの名前が書かれた瓦が屋根の上に乗り、奈良の空を見続けるのよ。
 これをロマンと言わずして、何をロマンというのか!?
 が、ふと現実的な疑問が頭をもたげてくる。あんなに墨だらけになった瓦が屋根を覆って、美観を損ねないのだろうか? これらは一番下に使い、綺麗な瓦で上を覆うのだろうか。それとも、これはお金を集めるためのレプリカで、実際には使われないとか。
 あるいは水洗いし、字を落として使用するとか。
 本当に使われるのだろうかという疑惑に囚われ、あれこれ深読みしすぎてしまった。
 ちなみに大講堂内は撮影禁止だが、瓦コーナーだけ職員さんの許可を得て撮影させてもらった。
 寄進のお礼にと下さった封筒には、十七条憲法をしたためた和紙が入っていた。
 十七条憲法は、推古天皇の治世において聖徳太子こと厩戸皇子の手により創られた憲法とされるもので、第一条は有名な「和を以て貴しと為す」だ。
 これは「和がなによりも大事である」という意味だが、単純なこの一文に日本人の根幹をなす原理が潜んでいるのには驚かされる。
 この第一条の本文は「むやみに反抗せず、上も下も睦まじく話し合いをすれば、事はおのずから道理にかない、何事も成し遂げられないことはない」と続く。
 つまり「和を乱すな」「話し合いをすれば、何事もうまくいく」と言っているので、これが今でも多くの日本人を支配する協調性とか、目立つ奴は叩かれるとかいった思想の根底にあるものなのだ。
 だから、何の能力もない人間同士がだらだらと話し合いを続け、大事なことは何も決められず、それでいて和を乱す奴は排除する、なんてことがまかり通る。
 興味深いのは、最後の17条だ。なんと言っているか。
 それは、「重大なことは一人で決めてはならない。必ずみんなで論議すべきだ」というもの。
 日本人が大好きな「みんなで仲良く話し合っていけば、うまくいくさ」という”なれ合い”は、実に聖徳太子の時代から大事なこととされていたのだ。
 だが、意見を異にする人々がただ集まって話し合って、本当にうまくいくのだろうか。「なんでも話し合って決めていきましょう」などという体制で、本当に正しい結果を導き出すことができるのだろうか。
 ここに、ある組織があったとする。その中の行動的な一人が、ある事柄を独断で進めてしまった。全員に相談をしていたら意見をまとめるのに時間がかかり、迅速な処理ができないからだ。
 しかし、それまで”和を大事にして”何もしてこなかった他の人々が、「あいつはケシカラン」と騒ぎたてた。そして、彼らで話し合いを持った結果、その人を排除してしまった。
 あらかじめ「こんなことをしたらクビだよ」というルールを定めていないのに、後から罰則を設けて適用するのはフェアではない。というか、違法である。
 しかし、日本という社会の中では、「話し合いで決定したことは何よりも重要で正しいこと」という頑なな思いこみがある。「全員一致でクビ」が決まったことは正しい結果なのだ、という妄想に支配されてしまう。これに誰一人疑わず従ってしまうところも、日本人の日本人たるゆえん。
 和を重んじれば、とりあえず争いを避けようとする意識が働く。内心おかしい、それはないんじゃないかと思う人がいても、「和を乱すヤツ」と思われるのが嫌で反対意見を口にできない。
 「みんなが言った」「全員が賛成した」と言われれば、そうかなと思い、体制に従ってしまう。
 この日本人のメンタリティというものは、時として国家的な悲劇を生み出す。それが「挙国一致」という幻想にとらわれて突き進んでしまった、68年前の太平洋戦争だ。
 真の知恵と能力を持たないリーダーに率いられた組織は悲劇である。

 いったん「西院」を出て、「東院」に入る。「大宝蔵院」(博物館)も含め、すべて法隆寺の入場チケットで入ることができる。
 東院伽藍のあったこのあたりが、厩戸皇子やその子、山背大兄王が御所とした「斑鳩宮」のあった場所とされている。
 厩戸皇子の死から約20年後、山背大兄王とその一族が蘇我入鹿に攻め滅ぼされて上宮王家は滅亡した。
 それから100年近い歳月が過ぎてから行信が発願し、東院伽藍が建立された。
 この「夢殿」は天平11年(739年)に建立されもので、八角の円堂(国宝)。東院の本堂で、太子の御影とされる救世観音(国宝・観音菩薩立像)が安置されていた。
 この観音像は白い布で幾重にも覆われた状態で、鍵が取り付けられた厨子の中に封印されていた。長らく秘仏とされてきたため住職といえども見ることはできず、開ければ聖徳太子の怒りに触れると信じられてきたという。
 明治17年、アメリカ人フェノロサと近代美術の先駆者・岡倉天心が初めて開封したという説が一般的だが、異論もある。

売店のガラスに貼ってあった「救世観音」のポスター。春と秋のみ期間限定で、夢殿にて公開されているそうだ

 人目にさらされてこなかったため保存状態が良く、全身の金箔が輝いて、文様もよく残っているそうだ。
 像の高さは178.8センチで、樟の木の一木造り。聖徳太子が生前にその姿を模して彫られたものとも、夢殿と救世観音は太子の祟りを鎮めるため作られたものとも言い伝えられている。
 梅原猛氏の「隠された十字架〜法隆寺論」によると、救世観音の後頭部には釘が打ちこまれているのだそうだ。
 なぜ聖徳太子が祟るかといえば、蘇我入鹿によって子孫までも滅ぼされてしまったからである。日本では古来より、供養する子孫が絶えたり無実の罪によって無念の死を遂げた者の魂は怨霊になると信じられてきた。
 「日本書紀」では聖徳太子は病死としているが、自殺説、暗殺説もある。
 そして間違いなく、山背大兄王は無実の罪により滅ぼされた。
 歴史の通説では、蘇我入鹿は皇極天皇の後継者として、自分の甥である古人大兄皇子を擁立していた。そのため人望のある山背大兄王が邪魔だったので、斑鳩宮を襲撃したという説が一般的だ。
 山背大兄王はいったん生駒山に逃れたが戦になることを避けるため、再び法隆寺(当時は斑鳩寺といった)に戻って妻妾ともども首をくくって死んだという。
 しかし、いろいろ読んでみても、入鹿が山背大兄王を襲った本当の理由はどうにも不明なのである。
 本当に邪魔だったのは皇極天皇の皇子、中大兄皇子(のちの天智天皇)のはずだ。彼は非蘇我系の生まれの上、婚姻の繋がりもない。彼が天皇になった時のことを考えると、入鹿は危機感を覚えたに違いない。
 一方、山背大兄王との対立点はどこにあったのか。皇極天皇に皇子がいる上、4代も前の天皇の孫である山背が、先代の皇子である古人を押しのけて即位できるチャンスはほとんどないように思える。それなのに、なぜ王を攻めたのか。そこが謎なのである。
 山背謀殺の裏には、他の皇族の意志や様々な陰謀がうごめいていたのかもしれない。
 あるいは、彼自身がクーデターを画策していたとも考えられる。父・厩戸皇子が得られなかった帝位を我が上宮王家に! と、決起を謀っていたかもしれない。
 しかし、「日本書紀」はそのことに触れず、入鹿ひとりに「無実の王を殺した汚名」を押しつけた。
 この事件から2年後、入鹿は中大兄皇子により宮中で暗殺された。これにより蘇我宗本家は滅び、入鹿に関する記録はすべて抹消されてしまった。彼にも妻や子はいたはずだが、歴史にその名は残っていない。
 怨霊になって祟りたいのは、むしろ蘇我入鹿の方だろう。我が子を殺され、父も自害、栄華を誇った甘樫丘の邸宅は灰となり、「蘇我氏は悪者」という汚名だけが残った。
 では、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足はそこまで入鹿を憎み、すべてを抹殺してしまったのか。入鹿という名も、彼の父蝦夷という名についても、後から悪い字を当てられたとする説がある。
 罪を犯した者や憎い政敵などに悪い字や卑しい名前を当てる例は他にもあるので、これは間違っていないと思う。だが、それだけで飽き足らず、入鹿の妻や子の記録までも抹消しているのは一体なぜだろう。入鹿が横暴の極みで天皇に対する越権行為を犯したというなら、彼一人を殺害すれば済む話ではないか。
 「日本書紀」には、甘樫丘に築いた父の邸宅を「上の宮門(みかど)」、自分の邸宅を「谷の宮門」とし、自分の子どもたちを皇子と呼ばせたとある。他にも、
 ○蝦夷が天皇のごとく紫冠を入鹿に授け、勝手に大臣の位を譲った
 ○天皇だけの特権である「八らの舞い」を蝦夷が行った
 ○多くの民を使って自分たち父子の墓を造り、大陵(おほみささぎ)・小陵(こみささぎ)と呼ばせた
などの数々の横暴を書き連ねている。
 このことから「蘇我入鹿は『天皇』もしくは『天皇に準じる地位』にあった」とみる、大胆な説も登場している。
 では、なぜ入鹿は事実上の天皇となり得たのだろうか。
 「皇極天皇の愛人だったから」という説を知ったときにはわたしも驚いたが、男女の関係がきわめてルーズだった時代のことである。女帝と家臣が深い仲になることは大いにありうると、妙に納得させられた。
 「ルーズ」というのは悪い意味で言っているのではなく、「ゆるやか」という意味だ。当時の結婚は、男が女の家に通うスタイルの「通い婚」であった。天皇であってもあちこちの女性の家に通うことは、よくあることだった。
 婚姻届などというものはないので、男が通っているうちは夫と妻。足が遠のけば夫婦関係は解消という、不安定で流動的な関係だった。
 その代わり、女が次々と別の男を通わせることは不道徳でもなんでもなく、男と同じように相手を替えることができた。
 皇極天皇は未亡人である。道徳的には、新たに夫を持っても差し支えはない。しかし、皇室の歴史の中で、女帝が即位してから新たな夫を迎えたという例は一つも確認されていない。
 孝謙天皇と元正天皇は一生独身だったし、推古天皇と元明天皇は夫の死後即位している。つまり、夫のいる身で天皇になった女性は一人もいないのだ。
 女帝に夫ができたら権力をそちらに奪われてしまうので、蘇我氏にしても藤原氏にしても大いに警戒したことだろう。例えば孝謙天皇における弓削道鏡のように愛人と目される男が現れれば、彼らは絶対に許さないに違いない。
 もし、皇極天皇と入鹿が夫婦同然の間柄だったとしたら、中大兄皇子がそれを許しておくはずがない。二人の間に子ができ、その子が皇太子に立てられたとしたら・・・。
 いや、「もし」の段階はとうに終わり、実際に子がいたとしたらどうだろう。甘樫丘の邸宅で「皇子」と呼ばせていたのは、皇極との間の子どもだったのでは? 皇子が住まう邸宅を「宮門」と称することは、なんら不思議なことではない。
 だが、皇極の年齢を計算してみて、これがありそうにもないことだと判明した。
 彼女が夫・舒明天皇を亡くして次期天皇に擁立されたのは、なんと48歳のときだったのだ。それから愛人を作って子どもを生める年ではない。ギネスブック的にはもっと高齢で出産した女性もいるが、古代の医学レベルでは無茶に近い。
 が、48歳以降の妊娠・出産はまったく不可能ではないので、その可能性に賭けて推理を進めてみよう。また入鹿は10歳年下だと考えられるが、そこも目をつぶる。
 幼少期は母・皇極の元で育てられた皇子・皇女も、長じて入鹿邸に迎えられた。そこで暮らした方が暗殺の危険も少なく、安全だったからだ。
 当初は中大兄皇子を次期天皇にと考えていた皇極だが、次第に入鹿との間に成した皇子に譲りたいと思うようになった。危機感を強める中大兄皇子。そこへ、叔父で皇極の弟・軽皇子(かるのみこ)が、耳元にそっと囁いた。「このままでは入鹿の子が次期天皇だ。あなたはいずれ抹殺されてしまう。やられる前に先手を打つに限ります」と。
 若い中大兄皇子はさっそく乗り気になる。そこで軽皇子は中臣鎌足を実行役として引きこみ、入鹿暗殺計画を進めた。
 成功した暁には首謀者である軽皇子が即位し、中大兄皇子は皇太子という筋書きである。二人は形式上の譲り合いをしてみせるが、入鹿推薦の古人大兄皇子が辞退するであろうことは、むろん計算済みだ。
 入鹿も皇極も、この古人大兄皇子に即位させるつもりはまったくなく、古人は真の狙いを隠すための、いわばスケープゴートであった。彼らは密約を悟られぬよう、あえて古人を担ぎだしてみせたのである。
 この後のことは、前回の飛鳥訪問で感じたことをまとめた「入鹿暗殺の黒幕は孝徳天皇だった!?」で触れているので、お時間があればお読みください。
 いずれにしても真実は闇の中で、タイムマシンでもない限り、謎が解き明かされることはないだろう。だからこそ、いくらでも物語(妄想ともいう)を紡ぎだせるところが、歴史のおもしろいところなのだ。
      
  2009年1月1日(木) 中宮寺
 実は再び法隆寺に来た理由というのが、昨年は時間の関係で入ることができなかったこの中宮寺なのである。
 ここは厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女が住まう「斑鳩御所」があった所で、621年、彼女の発願により尼寺が建てられたという。
 現在は法隆寺の東院の敷地内にあるが、創建当時は東に500メートルの位置に建っていた。南に塔、北に金堂を配した四天王寺式の立派な伽藍であったことが発掘調査から判明している。
平安時代以降は衰退してしまい、鎌倉時代に一人の尼の尽力によってわずかに復興したものの、その後の火災により荒れ果て、無人の寺となっていた。
 室町時代の末期から皇族の女性が住職となり、ようやく寺観が整えられていったという。このため中宮寺は「大和三門跡寺院」の一つとされている。
 「門跡寺院」とは皇族などが代々住職を務める、格式の高い寺院のことだ。現在も皇族ではないが、仏教大学出身の尼僧により中宮寺の門跡が継がれている。
 中宮寺入り口から入ったところ。藤棚から藤の種がたくさんぶら下がっていた。花の季節は、さぞ見事なことだろう。
 ちなみにここは法隆寺とは別料金で、大人500円。
 わたしはこの建物が中宮寺の本堂なのかと早合点し、「えっ、これだけ!?」 と驚愕してしまった。
 が、先に進むと、ちゃんと本堂があって一安心。
 こちらが本堂。なんと立派な創りだ。しかも、池の上に建てられているというのも一風変わっており、かなり驚く。
 実はこれ、コンクリート造りなのである。中宮寺の門跡にはその後も皇族の女性が数多く住持していることから、現在の皇室とも縁が深いらしい。高松宮喜久子妃の発願により昭和43年に新たに建立され、火災を憂慮してしっかりとしたコンクリート造りにしたという。
 それでありながら藤原時代の寝殿伽藍の形式にのっとり、池の上に建てられているという。
 池の周囲には山吹が植えられ、境内には様々な花の樹木が配されて、いかにも尼寺らしいあでやかさ。
 池の上に渡された橋を通り、木の階段をのぼって本堂入り口へ。ここから先は撮影禁止とのことで、カメラをしまう。
 本堂のご本尊は「世界三大微笑像」の一つとして有名な、国宝「如意輪観世音菩薩半跏像」だ。「木造弥勒菩薩像」と書いているサイトが多いが、中宮寺の公式HPには「如意輪観世音〜」とあるので、こちらの表記を採用した。
 飛鳥時代後期の作品で、寄木技法による仏像としては最古のものである。
 菩薩とは、修行中で悟りを開く前の釈迦を表したもので、髪を高く結い、アクセサリーを身につけた姿で描かれることが多い。そのため女性のように見えるが、れっきとした男性である。. 
 それでいて微笑んでいるような柔和な表情、なまめかしい指の曲線、細い体躯などは完全に女性として描かれているように見える。
 このタイプの仏像を、「半跏(はんか)思惟(しい)像」という。「半跏」は台の上に腰掛けて片足を下におろし、もう片方を膝の上に乗せて組む座り方のこと。「思惟」は物思いにふけっているような表情のことをいう。
 他の「半跏思惟像」は頬杖をついてうつむき加減のものが多いのだが、この菩薩は手をちょっと外し、今にも「ふふふ」と笑いだしそうな動きを感じさせる。
 いったいどこの誰が「世界三大微笑像」というキャッチフレーズを考えだしたのか知らないが、よく言ったものである。これだけで「見てみたい」という欲求が確実に膨らみ、拝観者数を増やすことに貢献したに違いない。
 だが、「世界三大微笑」の他の二つであるモナリザとスフィンクスを知らない人はいないだろうが、中宮寺の菩薩半跏像を知らない人は多い。まして世界的な知名度からしたら、中宮寺には失礼だが、かの二つとは比べものにならないだろう。
 それでも臆せず「世界三大」と言い切ってしまうところが、堂々としていていい。
 菩薩の気高さといい神々しさといい、モナリザをしのぐ美しさだ。ましてスフィンクスなんて比べものにならない端正さではないだろうか。
 軍配は間違いなく菩薩像に上がると思うが、いかが。
 画像がないため危うく忘れるところだったが、天寿国曼荼羅繍帳という国宝のレプリカも、同じ本堂内の片隅に展示されていた。
 現存する日本最古の刺繍で、厩戸皇子の死後、妻の一人であった橘大郎女がその死を悼んで作らせた曼荼羅である。
 法隆寺の宝物倉に眠っていたのを鎌倉時代に発見され、修復作業とともに複製が作られた。
 現存する曼荼羅繍帳は、最初のものと複製とが混じってつなぎ合わされたものだそうだ。元は5メートル四方もある大きなものだったが断片的にしか残されておらず、今は畳一畳にも満たない大きさであった。
(画像はWikimedia Commonsより転載したもの。元ソースはこちら

  2009年1月1日(木) 周辺情報
 最後に駐車場について。乗用車であれば、総門近くに民間の駐車場があり、あまり歩かずに済む。
 大型車やトレーラーの場合、もっとも近いのが「太子堂」というレストランの駐車場(地図上、赤い丸印)。食事をすれば無料、駐車のみ500円だ。法隆寺に向かって右側にある。
 食事をする予定があるという場合は、次にご紹介する町営駐車場よりこちらの方がお得である。
 わたしたちが停めたのは、そこより少し遠い「法隆寺交差点」に面した「法隆寺観光自動車駐車場」(地図上、赤い四角)。普通車600円、バス2,000円である。
 わたしたちが駐車場に入ると、係のおじさんがタイオガの全長を見渡して「これはぁ・・・うーん」と唸った。「普通車です」と言うと、「ホンマは大型いただきたいところですけど・・・」と苦しげ。
 わたしは再度「でも、普通車なんです」と繰り返した。結局というか当然のことながら、普通車料金を支払った。大きさで判断しないでほしいな。
 係のおじさんはその代わりというか、出入り口のすぐそば、トイレの真ん前を指定してきた。奥に停めさせて出られなくなったら困ると思ったのだろうか。
 それとも奥でテントを張って焚き火でもしないか心配なのかしら。
 昨年もトイレの前にキャブコンが停まっていたので、どうしてこんなところにと怪訝に思ったのものだ。どうやらキャンピングカーは奥ではなく、出入り口付近に停めさせる慣習があるらしい。
 ちなみに道路を挟んで反対側、松林の向こうにも広い駐車場がある。そちらは町営ではないようだが、画像にも写っている通り広い。料金は不明。

 
杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容など
すべての転用を禁じます